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Civil Engineering Consultant VOL.286 January 2020 017(明治43)年9月、上野~新橋間の接続は1925(大正14)年まで待たなければならなかった。なぜ新永間市街線は、四半世紀以上も接続されなかったのであろうか。■ 市区改正計画と日本鉄道ボイルの報告書は認知されていた一方、1877(明治10)年には西南戦争が勃発する等、国内情勢及び経済は安定せず、事業は進捗しなかった。しかし10 年余りの時が過ぎたころ、上野~新橋間の接続について官民で並行した動きが起きた。官側で上野~新橋駅間の接続が再度議論される契機となったのは、1884(明治17)年に内務省が主管となり作成した市区改正意見書である。当時の東京は江戸の町割りを継承していたことから、インフラの未整備や都市の不燃化が大きな課題であった。銀座煉瓦街や官庁集中計画も基本的には同様の背景に基づく事業であるが、「市区改正」はより広範な地域を対象とし、かつ交通問題を解決しようとした都市計画である。この中で上野~新橋間の接続が言及されたが、意見書は単に内務省独自のものであり、法的な拘束力はなかった。一方、民間からも鉄道企業を設立する動きが活発化し、私設鉄道としての民間企業・日本鉄道が1881(明治14)年に発足していた。日本鉄道は、新橋までではなく、上野~秋葉原間の接続が貨物輸送等の需要から必要だと考え、鉄道局や市区改正委員会へ幾度も提案・申請をするが、難色を示されるばかりであった。1888(明治21)年になり、上野・新橋・新宿辺りを起点として鉄道は整備されつつあった一方で、上野~新橋間は市街地が密集し、依然として馬車鉄道が運行されるのみであった。この状況の中で同年11月、市区改正委員会が法的権限を有することとなり、東京駅を中心とする鉄道網事業推進の機運が高まる。第14回委員会にてルート及び構造について議論され、「高架」という言葉が初めて言及される。翌年には、上野~新橋の中央鉄道と、東京~新宿を結ぶ「中央線」が委員会にて提示された。ただし2つの大きな課題があった。1点目は、かねてから危険視されていた馬車鉄道と歩行者の交錯であり、鉄道と道路の平面交差の解消、すなわち高架化は東京の鉄道網形成にとって急務だった。2点目は、当時の鉄道とはすなわち蒸気機関車であり、煤煙を撒いて走る汽車は市街部での通行に不向きであった。このため密集した市街地を通過する鉄道に対して、委員会としては消極的であった。このような技術的課題を抱えながら、1889(明治22)年3月、市区改正委員会は最終報告である市区改正設計案を内務大臣に提出した。これには、①上野~新橋間の接続、②高架橋による建設、③中央停車場を設ける、ということが示されていた。翌年には市区改正事業が正式に認可され、内務省が主導的に検討を進める事業体制が整ったのである。一方日本鉄道は、1890(明治23)年に平面軌道として上野~秋葉原間の整備を行った。しかし平面軌道に対する委員会や住民の反発があり、いずれは高架橋にするという姿勢を貫かざるを得なかった。■ 高架橋と電車の技術革新ボイルが素案を提示してから約15年が経過し、本格的な検討が始まった。鉄道局からは、具体的なルートを検討するように指示があり、上野~東京駅間は民間企業の日本鉄道が、東京駅~新橋間は官側で検討することとなる。ここで日本鉄道が招聘したのが、当時九州鉄道の技術顧問として来日していたドイツ人技術者ヘルマン・ルムシュッテルである。日本鉄道がルムシュッテルを招聘した理由は明確ではないが、平面軌道として整備した反発があったことから、高架化の技術を有する技写真1 雰囲気あるガード下写真2 竣工当時の高架橋(銀座から内幸町を望む)