ブックタイトルConsultant286

ページ
20/60

このページは Consultant286 の電子ブックに掲載されている20ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

Consultant286

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

Consultant286

018 Civil Engineering Consultant VOL.286 January 2020術者を探していたものと思われる。その意味で、ベルリンの煉瓦アーチ高架橋の建設に関与していたルムシュッテルを発掘し、技術を継承することで、高架化という課題は解決された。実際にルムシュッテルは官民の区分に関わらず、上野~新橋間の概略設計を1893(明治26)年に取りまとめる。一方官側は、仙石貢や広川広四郎といった日本人技術者が設計を行っていたが、成案にはなっていない。時を同じくして1880 年代に欧州にて電車が発明され、国内に技術が輸入される。1895(明治28)年には京都で国内初の電車が通行し、1903(明治36)年には東京に初めての路面電車が通行した。市区改正委員会で懸念されていた平面交差及び蒸気機関車による環境悪化といった課題はこれで解消されることになった。■ 煉瓦構造の妥当性1897(明治30)年、ルムシュッテルの案を基本とし、日本鉄道から再度事業が申請され、予算化された。官側の設計は進んでいなかったため、翌年にドイツ人技術者フランツ・バルツァーが来日し、日本人鉄道技術者とともに高架橋の具体的な設計を取りまとめた。径間12mと径間8mのアーチ構造を標準とし、内部空間の有効利用や基礎への負担軽減などの理由から、アーチの長さが半円以下となる欠円アーチが用いられた。また橋脚には、ベルリンの高架橋にもみられるメダリオンと呼ばれる円盤形の装飾や、小アーチを組み合わせた透かし模様の装飾が施された。アーチ橋の建設に用いられた煉瓦は日本煉瓦製造株式会社によるものと言われ、使用された煉瓦の総数は約5,400万個であった。現在は、橋梁を建設する場合は鋼材やコンクリートといった材料を用いることが一般的であり、当時もバルツァーは構造的観点から鋼材を用いるべきと主張していたが、当時の日本において鋼材は輸入する必要があり、煉瓦に比べ高価であった。構造については、バルツァーが着任する前に、震災予防調査会という文部省管轄の地震研究機関へ鉄道作業局から検討を依頼していた。この調査会の委員は田辺朔郎ら土木工学の専門家であり、「煉瓦造りは鉄構造に比べて劣るが、径間やアーチの形状等の工夫を行えば地震の被害は軽減できる」と勧告していた。このように、バルツァーが来日する前に、おおよその構造と材料有楽町駅新橋駅東京駅大宮浦和赤羽板橋王子目白新宿渋谷目黒品川大森川崎新橋(汐留)上野図2  平面図及び縦断図(「『東京市街高架鐡道建築概要』大正3 年12月18日発行 鐡道院東京改良事務所」に一部追記)図1 1887年時の鉄道網図写真3  メダリオンと呼ばれる円盤形の装飾跡