ブックタイトルConsultant286

ページ
21/60

このページは Consultant286 の電子ブックに掲載されている21ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

Consultant286

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

Consultant286

Civil Engineering Consultant VOL.286 January 2020 019は決定しており、それに準じて設計が行われた。なお供用後の1923(大正12)年に起こった関東大震災では高架橋そのものに大きな損傷は無く、現在まで支え続けていることからも、当時の専門家による知見は間違っていなかったと言えるだろう。■ 地盤沈下との闘い基礎工事は1900(明治33)年に開始された。基礎杭には当時一般的であった松丸太を用い、使用本数は全工区で4万本を超えた。新永間市街線高架橋が通過する日比谷付近は埋立地であり、沖積層が厚く堆積する軟弱地盤であったと共に、均質な地盤ではないため場所ごとでの対応が求められる難易度の高い工事であった。ただしバルツァーを始めとする設計・施工者も、地盤沈下は予想しきれなかった。1935(昭和10)年の調査では最大225mmの沈下が確認され、ひび割れが生じていたことから、補強を行っている。1951(昭和26)年に実施された試験では、煉瓦や杭は健全であったが、地下水位の低下による圧密沈下が確認された。要因は高架橋周辺に開発された建築物の冷暖房設備のための過剰揚水と考えられており、1963(昭和38)年に東京都が地下水揚水に関する規制をかけることで水位変動は落ち着いた。また高度経済成長期以降では、周辺のトンネル等の近接工事の影響による沈下が観察され、JR 東日本ではこのような変状に対し、構造解析や光ファイバーによるモニタリングを継続的に実施しており、現在は沈下が収束傾向にある。■ 国有化を経た供用開始1906(明治39)年、日本鉄道を始めとする私鉄は国有化された。日清戦争、日露戦争が生じていた当時、物流の主要幹線である鉄道が多数の民間鉄道会社によって分割保有されていることが、情報漏洩や財産保有等の観点から望ましくないと判断されたためである。日本鉄道は悲願であった上野~新橋間の接続を官へ託さざるを得なかったが、ルムシュッテルの招聘等、鉄道史においてその功績は無視できない。新永間市街線高架橋が完成したのは1910(明治43)年9月であったが、東京~新橋間が全通したのは1914(大正3)年の東京駅開業まで待たねばならなかった。明治から大正期にかけての戦争等に伴う経済の逼迫や技術革新を乗り越え、ボイルが着想してから約40 年もの時が過ぎ、供用が開始されたのである。多様な技術者が関与し、現在まで使われ続けている歴史的価値が評価され、2010(平成22)年には土木学会の選奨土木遺産に選ばれた。周辺のまちは日々変貌し、ガード下の飲食店も年月とともに入れ替わっていく。実際に有楽町から新橋駅間のJRガード下には新たな商業空間が計画されており、煉瓦アーチの美化も行われるようである。このように新永間市街線高架橋は、改変や補強を加えられながらも変わらぬ姿であり続け、これからも交通機関だけでなく東京の経済活動を支えていくであろう。<参考資料>1)『高架鉄道と東京駅 レッドカーペットと中央停車場の源流 上下巻』小野田滋 2012年2月 交通新聞社2 )『レンガアーチ高架橋の変状と維持管理』日本鉄道施設協会誌 2018年12月号3)『続 鉄道路線変せん史探訪』守田久盛 1980年 産業図書<取材協力・資料提供>1) 東日本旅客鉄道株式会社 東京支社総務部広報課<図・写真提供>図1 参考文献3)を基に筆者作成図2、写真2、4 土木学会附属土木図書館P16上、写真1 金野拓朗  写真3 惣慶裕幸  写真5 髙見元久写真4  載荷試験の様子(『東京市街高架鐡道建築概要』大正3 年12月18日発行 鐡道院東京改良事務所)写真5 高層ビル群の中で今も交通機関を支える高架橋