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Civil Engineering Consultant VOL.286 January 2020 027果、道路が川の全水面を覆うことになり、日照不足による水質悪化が懸念された。しかし、外堀を利用する舟がほとんど無くなっていたことから、最終的には川を埋め立てて道路を通すこととなった。この時に東京都議会で議決された関連3議案がある。本来、高速道路は都が計画実施するものであるが、都財政の状況から困難であるため、高速道路建設を東京高速道路株式会社に委託し、京橋川の紺屋橋から外堀を経て汐留川の難波橋までの公有水面の占有許可を与えた。高速道路は1.4kmの短区間であるが、1953年4月首都建設委員会で決定された計画の49kmの一環として、将来はその接続区間の延長と共に充分効果を発揮するものである。埋め立て工事は高速道路の建設と密接な関係があるため、工事費2.1億円の限度内において東京高速道路株式会社に工事委託し、その土地利用料を財源として年利1割で30年均等償還の方法で東京高速道路株式会社に支払う。東京都は、埋め立てた土地のうち、高速道路建ぺい部分6,034 坪(約2万m2)を年額3,000万円で東京高速道路株式会社に賃貸する。川を埋め立てて高速道路を建設するとなると、当然のように地元でも様々な反対運動が起こり、都議会や東京高速道路株式会社への陳情や水上デモ等が行われ、1954(昭和29)年3月には高速道路対策委員会や高速道路建設生活擁護連盟が結成された。これに対して東京高速道路株式会社は、同年8月に「高速道路問題について」とした説明書を示し、幾度となく地元との交渉の場がもたれた。その説明書の中には、KK線建設の位置づけや事業方式について記されている。「高速道路の建設は本来都が計画実施すべきものですが、何分にも我が国最初の計画で果たして成功するか、もてあますか、相当の危険が予想されている。しかも莫大な費用を要し都財政上困難でありましたので、テストケースとして東京高速道路株式会社と契約して実施させることになった…」「道路の高さは地上7.5mで、省線(現JR)の高架道より若干高いもので、その道路は1階と中2階、さらには地下室ができるわけで、この計画区間の工事に要します費用は総額21億6千万円の莫大なもので、この建設費の償還をするために会社が事業をやらなければ引き合わないので、この路下室14,800 坪(5万m2 弱)を貸付して家賃を収益する仕組みです…」。これによると、KK線は既に決定されていた首都高計画49kmのテストケースとして、東京都の財政難等を理由に、現在のPFI(Private Finance Initiative)の先駆けともいえる画期的な事業方式によって、民間会社である東京高速道路株式会社に実現を託されたものということである。■ 並走する2 つの路線地元との協議を重ねた結果、1955(昭和30)年3月には、東京都・東京高速道路株式会社・地元による高速道路建設工事に関する協定が成立し、1959(昭和34)年の一方通行による一般供用を経て、1966(昭和41)年3月31日に13 年の歳月と総工事費70 億円を費やしたKK線は完成を迎えた。そして、1973(昭和48)年には首都高八重洲線との接続が完了し、現在のように有料と無料の2路線が並走する区間が誕生することとなった。戦後の東京都心における交通環境改善とともに、経済発展にも大きく寄与したこれらの高速道路の存在は、今もなお東京を支え続け、これからも周辺地域と共に発展していくことであろう。<参考資料>1)『首都高物語(都市の道路に夢を託した技術者たち)』一般社団法人首都高速道路協会 2013年2)『首都高速の謎』清水草一 2011年 扶桑社3)『自己紹介します 首都高速』首都高速道路公団 1993年4)『東京高速道路 三十年のあゆみ』東京高速道路株式会社 1981年5)『Corporate Profile』東京高速道路株式会社<取材協力・資料提供>1) 首都高速道路株式会社2) 東京高速道路株式会社<図・写真提供>図1 首都高速道路路線図を基に株式会社大應作成図2、写真4、5、6、7 東京高速道路株式会社P24上 谷口史記写真1、2、3 首都高速道路株式会社写真7 1965 年のKK 線(銀座付近)