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Civil Engineering Consultant VOL.286 January 2020 029ている。動力飛行機の発明者で世界初の飛行機パイロットとなったライト兄弟による初飛行が1903(明治36)年であるから、飛行機が誕生して日も浅く、性能も十分ではなかった時代であったが、いち早く飛行機に期待を寄せた人々により、飛行学校が誕生したのである。一方、1929(昭和4)年に立川陸軍飛行場の一部を間借りして民間飛行場が誕生した。その後、1931(昭和6)年に立川から羽田に移転し、軍用とは別の東京飛行場として整備・開港され、新聞社機が各地へと飛行したほか、民間機が大陸にも航空路線を伸ばしたのである。第二次世界大戦が終結するとすぐにGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が東京飛行場を接収した。軍用基地として2,000m級滑走路2本を完成させたことが、羽田空港の礎となっている。アメリカなどの外国の航空会社が定期航空便を開設し、数年後には我が国にも航空会社が誕生した。1952(昭和27)年の運輸省告示で、国際線と国内線を併せ持つ東京国際空港と称するようになったのである。羽田空港は1958(昭和33)年に全面返還され、C滑走路の新設、B滑走路の延長、ターミナルビルの拡張整備などと空港施設の拡大が進められた。その後の我が国の航空需要の増大は著しく、1960年代に入り、施設全体が手狭となった。羽田空港を拡張してもこれ以上の増便は困難という判断から、国際線部門拡充のために新空港を設け、新しい航空需要に対応することとなった。新東京国際空港、通称「成田空港」の誕生である。紆余曲折の中、1978(昭和53)年に成田空港が開港したことで国際線は羽田空港から移転し、羽田空港は国内線専用の空港として地方各地と結ぶ巨大な国内ハブ空港へと成長することとなった。当時、航空機のジェット化による周辺への騒音が問題となっていたことから、成田空港の新設とは別に1970年代に羽田空港の沖合展開が計画された。1984(昭和59)年以降、段階的に埋立て整備が進められ、2010(平成22)年には新たに4 本目のD滑走路が供用された。現在、ターミナルビル3棟と機能的に配置された滑走路4本を備えた大空港に変貌している。今後も拡大する航空需要を満たすため、空港施設の拡大構想が進められる一方、離発着の処理能力拡大のために都心上空を通過する新たな飛行ルートの開拓も進められている。羽田空港は都心までモノレール、鉄道、高速道路により短時間でアクセスできる利便性の高い空港であるが、さらにアクセス向上を目指した社会基盤整備も検討されている。■ 立ちはだかった軟弱地盤の埋立地羽田空港は多摩川河口部の洲や干潟及び遠浅の海を埋立て、造成することで発展してきた。1984~1993(昭和59~平成5)年にかけてのⅠ~Ⅱ期の沖合展開事業では、「羽田マヨネーズ層」と称される東京港の浚渫土や、都心の再開発で発生した土砂が無秩序に投入された超軟弱地盤の上に空港が拡張された。元々、空港用地を目的とした埋立地ではなかったことから、空港として所要の強度を得るための地盤改良には多大な苦労があった。軟弱な地盤中から水を抜き、強度を高める地盤改良技術(ペーパードレーン工法)などの新技術が生み出され、難工事を克服したのである。2010 年には再拡張整備によりD滑走路が建設された。D滑走路は多摩川の流れに支障を与えないように、空港としては極めて稀な多数の鋼管で滑走路を支えるジャケット式桟橋構造が採用された。ターミナルビルや上下水道等の構造物は浮上防止や地震時の液状化対策等の対応も必要とされるほか、海写真1  飛行学校当時の様子写真2  返還間もない頃の羽田空港