地域の話題

2つの大宰府と九州国立博物館

西日本技術開発 株式会社
久田 幹夫

九州支部国立博物館
▲九州国立博物館

 入場者が300万人を超えた。2005年10月16日開館から14ヶ月余経った2007年3月2日である。九州人100年の悲願が叶って建設された九州国立博物館は、予想をはるかに上回る入館者で溢れかえっている。
100年以上の歴史を誇る東京、京都、奈良についで4番目となるこの国立博物館は、他の3つが美術系なのに対し、歴史系博物館となっている。九州が古くから日本の外交拠点であった歴史的、地理的背景から、「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える」というコンセプトを持っているのである。また、アジア地方各地との文化交流を推進する拠点としての役割も持って建設された。敷地面積16万平方メートル、建築面積14,623平方メートル、延床面積30,085平方メートル、地上5階(S造)地下2階(SRC造)、最高高36mは日本の国立博物館中最大の大きさを持っている。

 なぜ、太宰府に博物館が建てられたのか、その意味を探ってみた。太宰府というと若い人は学問の神様、歴史の好きな人は遠の朝廷大宰府を思い浮かべるであろう。前者は天神さんのお社、後者は日本国初期の地方最大の役所である。

太宰府天満宮

大宰府天満宮
▲大宰府天満宮

 天神様で親しまれ、年間700万人の参拝客のある太宰府天満宮は、菅原道真(菅公)縁の社である。901年1月25日、右大臣(従二位)兼右近衛大将・菅原道真は藤原時平の謀略により、大宰権師に左遷され、謫居の日々を送ること2年、903年2月25日に59歳の生涯を閉じた。遺体は大宰府近辺の安楽寺に葬られ、905年祠廟が建立、919年左大臣藤原仲平が勅を奉じて社殿が造営された。社殿はたびたび兵火にかかったが、1,591年小早川隆景により造営されたものが現存している。

 道真の没後、各地で疫病や天変地異などの凶変が続き、「菅公の怨霊のなせる業」と恐れられた。これを鎮めるため923年道真を元の右大臣に復すとともに、正二位に叙し、993年には左大臣・正一位、さらに同年太政大臣を追贈している。この間、平安時代盛んであった「怨霊信仰」、「農耕神としての天神様」と結びついて、菅公が神格化されたと考えられている。道真の怨霊に対する恐れも少なくなってきた中世(没後約200年)頃から、生前優れた学者であったことにより学問の神として信仰されるようになった。祟りの神様から、文道の神様へと変化したのである。


大宰府

大宰府は、律令制下、すなわち、天皇を頂点とする貴族・官僚支配体制下で地方の役所としては最大のものであった。当初の大宰府の大は大で、最初に太の太宰府が見えるのは平安時代末期(1,167年)である。それ以降、固有名詞としての太宰府が定着したと考えられ、歴史的なもの以外では太宰府が使われている。大宰府は、663年日本が百済を救援して唐・新羅軍と朝鮮半島西岸で戦った白村江の戦いの敗戦直後、現在の政庁跡に造営されたとされている。名前が「大宰府」となったのは大宝律令の制定された701年で、その後約400年の間、この地に政庁があったと考えられている。その後も、13世紀の元寇が大宰府を目指したことを考えると、外国に対する玄関口としての機能を維持し続けていたと思われる。

太宰府天満宮風水
▲大宰府周辺図

 大宰府は風水を考慮して造られたと言われている。広辞苑によると、風水とは「山川・水流などの様子を考え合わせて、都城、住宅、墳墓の位置などを定める術。特に、中国や李朝朝鮮では墓地の選定などに重視され、現在も普及」とある。また、「日本書紀」によれば、水城や山城の造営に力を貸したのは、百済からの亡命官人であったという。彼らは土木技術のみでなく、風水も熟知していた。また、日本風水即ち陰陽道が天武天皇(673年即位)により創唱された時期とも重なり大宰府が風水の影響を受けているのは間違いない。

 風水は東洋の環境学とも言われる。空気の流れ(風)、水の流れを恰も生き物の如く捉える発想は、自然のなかに人間が共存できる場所を探すという東洋思想であり、自然を人間と対立するものとみる西洋思想とは相反するものである。
では、なぜこの地を西の拠点と決めたのか。筑紫の地は日本列島の中で最も東アジアに近い。筑紫のどの位置に政庁を設けるのか。当時、正確な地図はなく、文字通り、この周辺をくまなく歩き回り決めたと考えられる。自分の位置を確認するには、見晴らしの良い高い所に登る。筑紫で高い山と言えば、役の行者(701年没?)伝説のある背振山(1,055m)、心蓮上人(683年没)の墓祠のある仏頂山(旧宝満山869m)であろう。これらの山に登り、見当をつけ、周囲の山に登り、地点を絞っていったと考えられる。

太宰府政庁跡 竈門神社
▲太宰府政庁跡 ▲竈門神社
大野城百間石垣基肄城跡
▲大野城百間石垣▲基肄城跡

 地図を広げてみると、これがよく分かるような気がする。大宰府の東に大根地山(652m)、西に油山(597m)、南に基山(405m)、北に大城山(四王寺山最高峰、410m)がある。この山を結んだ交点に大宰府政庁があるのである。さらに南には三笠川が流れ、二日市温泉がある。表の鬼門、北東方向に宝満山(竈門神社)、裏の鬼門、南西方向に背振山が聳えている。正に、風水都市なのである。もちろん、白村江の敗戦後であるから、追手を阻むための防衛都市としての機能も持っている。北の玄武・四王寺山には大野城を築き、北西方向(博多湾)を監視し、南の朱雀・三笠川、二日市の延長線上、基山には基肄城を配して南東方向の監視をしている。さらに、東の青龍には宝満川が流れ、西の白虎に四王寺山から背振山に向けて水城が造られている。正に要塞の地となっている。

 大宰府政庁と大根地山を結ぶ線上に九州博物館があるのは、偶然であろうか。九州国立博物館もまた、地勢的な恩恵を受けているように思えてならないのである。

百年の夢

水城跡
▲水城跡(右岸より背振山を望む)

 九州博物館が、九州人100年の夢とされるのは、1,899年、岡倉天心が「九州博物館設置の必要」を提唱してから100年ということらしい。しかし、これだけにとどまらず、いろんな誘致運動があったことは、森弘子氏の「大宰府発見」にも経緯が記されている。いずれにしても、粘り強い誘致活動と大宰府の歴史が結びつき、さらに、アジアとの交流の再認識が九州国立博物館を現実のものとした。

 大宰府が設置された頃の日本の人口は600~700万人といわれている。現在の大宰府天満宮に1年間でお参りする人の数は、当時の日本国の人口と同じである。さらに、その半分の人が1年半で訪れようとしている九州国立博物館は、最新科学技術の粋を集めて造られ、現代人を魅了してやまないのである。

 最近、土木設計においても風土工学や自然環境を取り入れる風潮にあるが、その意味するところは、正に、西洋思想と東洋思想の融合ではないかと考えている。歴史を学ぶことは、先人の知恵を学ぶことに他ならないと改めて思う。

(参考文献)
・清水憲二 わかりやすい天神信仰-学問の神さま 鎌倉新書
・森 弘子 大宰府発見 歴史と万葉の旅 海鳥社