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特集超高齢社会?岩手三陸を舞台に?6お年寄りや高校生の足「三鉄」の震災から復興へ望月正彦MOTIDUKI Masahiko三陸鉄道株式会社代表取締役社長日本初の第三セクター鉄道として誕生した三陸鉄道。全国の地方鉄道が抱える課題と同様に、鉄道利用者の減少に対して独自のアイデアで乗り越えてきた矢先の震災。住民の足として、被災9日目に一部復旧を果たした三鉄は、復興支援と地域振興を使命として走り続けている。三鉄立て直しの矢先の被災岩手県の沿岸部を走る三陸鉄道(略称「三鉄」)は、昭和59年4月1日に開業した。旧国鉄の特定地方交通線から転換した第三セクター鉄道の第1号である。三鉄の路線は、大船渡市から釜石市までの南リアス線(36.6km)と宮古市から久慈市までの北リアス線(71.0km)からなる。中間の釜石と宮古駅間(55.4km)はJRの山田線となっている。交通の便が悪かった岩手県の沿岸部。三鉄の開業は地域の悲願だった。住民の日常生活の足として、通学、買い物、通院等が格段に便利になった。また陸中海岸国立公園の景勝地に恵まれ、多くの観光客が訪れるようになった。開業から10年間は黒字を計上した。しかし平成6年から赤字に転落した。理由はマイカーの普及、人口の減少、公共施設(病院や高校)の郊外移転などである。しかし車を運転できないお年寄りや高校生の大切な生活の足であり、多くの観光客や鉄道写真1 北リアス線「こたつ列車」の観光客(震災前)ファンに利用いただくことで地域の活性化にも貢献していた。三鉄は「こたつ列車」や「歌声列車」など、様々なイベントの実施や、観光客の誘致に努めていた。ようやく乗客の減少に歯止めがかかったかに見えた矢先に、東日本大震災に遭遇したのである。被災状況と復興支援列車●震災直後の対応宮古市にある本社では、大津波警報を受けて一旦避難した。10名ほどの幹部は平成23年3月11日午後6時、宮古駅に停車中の車両内に移動。車内に災害対策本部を設置した。三鉄の車両は気動車であり、エンジンをかけると明かりと暖房を手に入れることができた。車内にはホワイトボード、ノート、災害優先携帯電話を持ち込み、情報収集や指示に当たった。宮古市街の停電が復旧した16日夕方まで車内に留まった。●震災による被害と運転再開ふだい北リアス線の久慈駅~普代駅間については3月12日までに報告が入り、陸中野田駅~野田玉川駅間で線路が流出したことなどが判明していた。翌日に行った現地確認の結果、田老駅周辺は駅舎や昇降口にガレキが山積していること、線路の一部を津波が越えていることが確認された。島越駅周辺は壊滅的な状況であった。しかし、これ以外の北リアス線の駅と線路は大きな被害を受けていないことが確認された。さかりほれい南リアス線については、同日までに盛駅付近と甫嶺駅周辺での線路流出、盛川と大渡川橋梁の損傷等により、全線で運行できる状態でないことが判明した。026Civil Engineering Consultant VOL.263 April 2014