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3(上)現在の武隈の松(7代目)、樹齢は約2 0 0年と推定されている2(左)江戸時代の武隈の松、奥の細道では次に訪れた「笠嶋」と「武隈の松」の順番が逆になっている。それだけ武隈の松に感動した芭蕉の紀行文に対する遊び心が伺える5(右)岩沼バイパス開通時の様子。1963年の開通時は、中学生のブラスバンドを先頭にパレードして、歓迎を受けた4(下)現在の岩沼バイパス。1日5万台の交通量を捌く大動脈となっている信仰のもと、農業や産業振興の神として発展し、今でも東北地方を代表する初詣の地として知られている。岩沼は、律令制における畿内七道の「東山道」と「東海道」、江戸時代には「奥州街道」と「江戸浜街道」、明治時代には「陸羽街道」と「陸前浜街道」と、名称や経路が変わっていったものの、仙台と江戸とを結ぶ山側と海側の街道の分岐点としての役割を担い続けてきた。また江戸時代には、岩沼城の城下町、宿場町、竹駒神社の門前町などの様々な賑わいを持ちつつ、明治時代になると、地の利もあり、軍馬生産、養蚕、機織業、醸造業などの産業が興った。昭和に入り自動車交通の時代になってからも、国道4号と6号が交わる交通拠点となり、さらに岩沼バイパスが作られ、かつ車線を拡幅するなど、パルプやゴム製品などの工場立地や増大する交通量に合わせて道路が整備されてきた。1970(昭和45)年には岩沼市が誕生し、国道沿いの既成市街地に加え、仙台空港周辺の物流拠点、臨空工業団地等の新たな産業が発展した。2011(平成23)年3月11日、仙台空港等の臨海部に津波が押し寄せ、岩沼市域の48%が浸水し、伊達政宗が造り始めた貞山運河をはじめ多くの文化財も被害を受けた。震災後、宮城県により貞山運河の再生・復興ビジョンが策定された。岩沼市ではクロマツの防潮林があった海岸線一帯について、震災廃棄物の再生資材を活用した丘を築造し、その上に植樹することで、津波の威力を減衰・分散させるとともに、避難場所や生物多様性の拠点となる「千年希望の丘」の整備を進めている。2013(平成25)年11月、武隈の松は、おくのほそ道の風景地として、国の名勝指定を受けた。芭蕉が詠んだ武隈の松は5代目、現在の松は7代目となるが、今も岩沼の街を見守っており、古のままV字に伸びる姿はまさに二つの街道をしっかりと支える岩沼の役割を象徴しているようだ。平安時代から何度とない困難に見舞われたであろう武隈の松は、岩沼の人々に愛されながらそれを乗り越え、この地でしっかりと生き続けている。さらなる発展を目指し、千年以上続く街の「希望」とともに輝き続ける存在であってほしい。<参考資料>『子ども岩沼市史』岩沼市史編纂委員会平成24年<取材協力・資料提供>岩沼市教育委員会市史編纂室<写真提供・出典>1、2『奥州名所図会』宮城県図書館蔵3、5『子ども岩沼市史』岩沼市史編纂委員会4大角直Civil Engineering Consultant VOL.263 April 2014031