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写真3ヤズド水博物館写真4 ?5本の風取りの塔があるヤズド市内のアーブ・アンバール。現在はダンスホールるアッシリアの王サルゴン2世(在位BC722~705年)がBC714年、アナトリア地方(トルコ東部)に版図をもつウラルトゥ王国を攻め落とした。この出来事が刻まれた粘土板には、ウラルトゥ王国にカナートと思われる水利施設の記述があり、サルゴン2世はその出口を破壊してこの地方を征圧した、と読むことができるという。この記述の場所は、現在の国でいえばイランの北西部、カスピ海の南側にあるウルミェ地方だと考えられている。サルゴン2世のあとを継いだ王センナヘリブ(在位BC705~681年)は、母国にこのカナートの技術を持ち帰り、アッシリアの町にカナートを建造させたことが考古学調査で確認されている。■アーリア人起源説ただし、このセンナヘリブが持ち帰ったという説には異論もある。ウルミェ地方はそもそも河川灌漑が可能で、カナートを必要としないとの理由からである。イラン人学者サフィーネジェードもその一人であるが、彼はカナートの起源を、現在のイラン中央部の砂漠地帯ヤズドの周辺に、イラン人の祖先であるアーリア人が築いたものと推定する。この説ではいつ頃カナートが発明されたかは定かではない。しかし、BC2世紀のギリシャの著述家ポリピュウスの『世界史』には、次のような記述がある。「ペルシャのこの地方には、まったく水はないが、土地の不案内な者にはわからない砂漠の諸地点に、井戸の竪坑が通じている多くの地下水路がある」。これはカナートの記述であり、ポリピュウスはペルシャの高原地域にこうした水利施設があり、その起源はペルシャ人の支配時代、すなわちアケメネス王朝(BC558~330年)の時代である、と記している。■ペルシャにおけるカナートの発展このように、カナートの確立についてはいくつかの説があるが、その場所はペルシャ、現在のイランであったことは両説に共通する。アッシリアの次にこの地域を平定したのは、アケメネス朝ペルシャで、乾燥したイラン高原各地にカナートが普及し、多くのオアシス都市が生まれた。このペルシャを現在に引き継いだのが、イランである。イランの国土は、一部の山岳地帯を除くと多くは乾燥しており、年間降水量が250mmを下回る砂漠が国土の75%を占める。現代においてもイランは「カナートの国」と呼ばれるほど、カナートが普及している。首都テヘランをはじめ、多くの都市はカナートの水利によるオアシス都市を源流とする。イラン全土には村落が45,000あるが、カナートの総数は約40,000といわれ、そのうち25,000が現在も稼働している。しかし、最近は機械式の深井戸が増加しており、カナートは年々減少している。■カナートの水を取り込むイラン建築ヤズドは乾燥したイラン高原に栄えた都市である。13世紀に東方を旅したマルコ・ポーロはヤズドを「高貴な町」と書いているから、その頃にはすでに発展した町であった。ヤズドの歴史地区は、ほぼ全体が日干し煉瓦で建築されている。また、ヤズドはゾロアスター教(拝火教)の中心地としても知られる。現在はイスラーム教が優勢になっているが、ゾロアスター教徒も5,000人を数える。ヤズドは何かとカナートと縁がある町である。キャヴィール砂漠とルート砂漠という二つの砂漠が交わる場所に位置し、周辺に乾燥地が広がるため、古くからカナートが多く造られた。歴史地区には東西に4本のカナートが設けられ、ヤズドがカナートによるオアシス都市として発展したことが推測される。Civil Engineering Consultant VOL.263 April 2014045