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写真1左ジョン・A・ローブリング中ワシントン・A・ローブリング右エミリー・W・ローブリング図1ニューヨーク市の5つの行政区ハドソンは大西洋に面した良港マンハッタン島を発見。その後、オランダからマンハッタン島南端へ多くの人が入植した。しかし1664年、イギリスの植民地へと変わり、当時のイギリス国王の弟“ヨーク候”にちなんで“ニューヨーク”と名付けられた。そして1783年、アメリカはイギリスから独立を果たすとともに、産業や文明の急速な発展を背景にマンハッタンの市街地拡大が続いた。1790年に3万人程度だった人口は、1850年には50万人を超えて、マンハッタンの都市化が進展する中、イースト川対岸のブルックリンとの繋がりが大きく期待された。ブルックリン橋が架かる以前、マンハッタンとブルックリンを結ぶ交通手段は蒸気船が主流であって、天候不順で運休することも多かった。こうした中、世紀の大事業としてブルックリン橋の計画が進められた。■アメリカンドリームを胸にドイツから移住ジョンは1806年、ドイツ・チューリンゲン地方で生まれた。決して裕福な家庭ではなかったが、教育熱心な母の期待を背負い、14歳でバウマイスター(日本の二級建築士相当)に合格するなど、若くして技術者として高い素養があった。その後、ベルリン王立高等理工科学校(現ベルリン大学)へ進学、橋梁工学を学び、卒業論文で取り上げたほど吊橋に深く魅せられた。20歳にして優秀な成績で卒業し、プロイセン王国の土木技術者として就職した。しかし24歳となった1830年、ジョンは将来の地位が保証されている職を投げ捨て、翌年に友人らとともに、アメリカンドリームを胸に新大陸へ渡った。当初、アメリカへ渡ったジョンは、他の移民者と同様に大農場経営に乗り出すが失敗に終わっている。1837年、再度土木技術者としての職に就くとともに、1841年には人生の転換期とも言える「ワイヤーロープ(細い鋼線を撚って束ねたケーブル)」と「平行線ケーブル(鉛筆大の太い鋼線を撚らずに平行に束ねたケーブル)」を発明した。この発明により、ジョンはケーブル製造業者として富を得るとともに、長大吊橋の技術者として大きな一歩を踏み出すこととなった。■長大吊橋への挑戦ジョンは、ワイヤーロープの技術と橋梁技術者としての才能を如何なく発揮し、吊形式による水路橋や道路橋の設計・建設を多く手掛けることとなった。そして1855年、実現不可能と言われたナイアガラ渓谷に架かる吊橋「ナイアガラ橋」を完成させたことで、吊橋技術者として名声を博した。この橋は中央径間244m、上段を鉄道、下段を人と馬車が通るダブルデッキ構造であった。また1866年には、南北戦争(1861~1865年)の最中に工事が進められたオハイオ川に架かる吊橋「シンシナティ・コヴィントン橋(現ジョン・A・ローブリング橋)」において、当時世界最長となる中央径間321mを実現した。さらにその頃は、土木技術を学んだレンセラ写真2主塔から伸びるメインケーブルCivil Engineering Consultant VOL.266 January 2015019