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概要

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ー工科大学を1857年に卒業した息子ワシントンも、助手として橋の建設に参加させていた。こうした順風満帆な状況の中、ジョンとワシントンはブルックリン橋建設を手がけていくことになった。■ブルックリン橋への挑戦ジョンは1852年の時点で既にブルックリン橋の構想を持っていたが、その全貌が世間の注目を浴びたのは、10年以上を経た1864年だった。南北戦争終結の1865年、ニューヨークの実業家たちによってニューヨークブリッジカンパニーが設立され、1867年4月に橋梁事業の認可申請が州議会を通過、翌月ジョンは正式に最高技術責任者に任命された。ブルックリン橋が長大吊橋の起源と謳われている所以は、世界最長となる中央径間を支えた技術であり、転炉製鋼法による鋼製ケーブルと、防食を目的とした亜鉛メッキ鋼線と平行線ケーブルを用いたことである。それ以前のケーブル素材は錬鉄であり、ナイアガラ橋のケーブル引張強度は70kgf/mm 2であった。しかしその後、1855年にイギリスのベッセマーが発明した転炉製鋼法で製造した鋼製ケーブルの引張強度は、約1.6倍の112kgf/mm 2へと向上した。また、風や振動による影響に対して十分な剛性を確保するため、補剛桁にはトラス構造を採用した。こうした技術によって橋自体も軽くなり、中央径間長の更新に大きく寄与した。■ニューヨークの象徴としてブルックリン橋を強く印象付けるものとして、主塔の存在感と人々が通行する橋上空間が挙げられる。高さ84.3mとなる主塔は当時のマンハッタンビル群を凌ぎ、花崗岩で構成されたネオゴシック様式の佇まいは、単なる土木構造物ではなく宗教建築物を思わせる。ジョンは計画書で「ブルックリン橋は、この大陸とこの時代における最大の土木事業となるであろう。その最も顕著な特徴である巨大な主塔は、隣接する二つの都市写真3 1905年、ボードウォークを散策する人々写真4 100年以上を経て変わらないボードウォーク写真5かつての馬車や鉄道に変わり現在は3車線道路写真6 河床から24m掘り下げられたマンハッタン側の主塔の境界標となり、国家的モニュメントの一つに数え挙げられる存在となるであろう」と述べている。当時の幅約26mの橋上空間には、両外側2レーンが馬車用、両内側1レーンがケーブル鉄道用、そして中央ボードウォーク部には他のレーンから約5.5m高い板敷歩道を設けた。再びジョンの言葉を借りれば「ボードウォークは晴天の日に人々が橋上を散歩し、美しい風景や澄み切った空気にふれることを可能ならしめる。人間がひしめきあうプロムナード商業都市において、散歩道が計り知れない価値を持つまことは言を俟たない。」と述べている。なお、軌道は1950年に廃止されている。■ジョンの遺志を継いでブルックリン橋は、1868年にほぼ全ての設計を終えて事業開始に至ったが、未だこの世紀の大事業に対して不安視する声や夢物語と非難する人も多かった。このような時に不幸が訪れる。着工直前の1869年6月、ジョンが現地測量中の事故で重傷を負い、1ヶ月後の7月22日に63歳でこの世を去ってしまう。事業の要となるジョンの死は関係者に大きなショックを与えたが、8月には当時32歳であったワシントンがジョンの遺志を継いで最高技術責任者に就いた。020Civil Engineering Consultant VOL.266 January 2015