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写真3ダム直下の発電所。右がネバダ側、左がアリゾナ側写真4ネバダ側発電所内部のタービン群写真2パンフレットの表紙280億m 3なので、やはりその規模は圧倒的である。難工事で知られる黒部ダムは着工から完成まで7年、総貯水容量が日本最大の多目的ダム、徳山ダムでも工事着手から完成まで8年かかっている。フーバーダムは前例のない規模のダムでありながら、わずか5年で完成している。なぜフーバーダムはこのような短期間で造ることができたのであろうか。■氾濫するコロラド川コロラド川はロッキー山脈を水源として、アメリカの7つの州とメキシコの2つの州を経由してカリフォルニア湾に注ぐ、全長約2,330kmの河川である。1800年代から1900年代初頭、雪解けの季節になると氾濫し、夏から秋にかけては渇水する河川であった。1905年には大規模な洪水が発生し、復旧に2年の歳月と300万ドル以上を費やすなど流域での洪水被害は頻発し、早急に河川を調整・管理するダムの必要性が問われていた。しかし、ダム建設を進めるには多くの問題を解決する必要があった。その最も重要な問題がコロラド川流域の水の配分である。1922年11月、コロラド川流域のアリゾナ州、カリフォルニア州、コロラド州、ネバダ州、ニューメキシコ州、ユタ州およびワイオミング州の7州の代表と連邦政府は、この問題を解決するためのコロラドリバーコンパクトに署名した。これはコロラド川流域を上流と下流に二分し、各流域に年間推定流量の半分ずつを与えるものであった。1928年にはダムの建設を承認するボルダーキャニオン・プロジェクト法が制定された。■ダム建設に向けて1929年3月、共和党のハーバート・フーバーが第31代大統領に就任する。フーバーは工学的な問題や水と電力の割り当てなどの調整を精力的に行い、ダムの早期建設に尽力した。ちなみにフーバーの大学時代の専攻は地質学であり、自身も鉱山で働いていた技術屋であった。これも、この一大公共事業に力を注いだ一因かもしれない。しかし、ダム建設にこぎつけるにはまだ問題が残っていた。当時、堤高200mを超えるダムが無かったことから、フーバーダムの安定性に関する問題が指摘された。幾度と無く論争が繰り返されたが、イリノイ大学のウエスターガード教授の『フーバーダムの安全性』という論文により議論は収束した。また、当初は70箇所のダムサイト候補地が挙げられ、最終段階でも8箇所が検討されていた。そして、地形や地質など総合的な判断からブラックキャニオンに建設することとなった。設計に関しても、現在のように計算機があるわけではないので、苦心したようである。約30ケースものダム形状が検討され、ゴムとプラスティックの模型を製作して理論のチェックが行われた。1929年10月にはニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを発端として、世界恐慌が発生した。当然、フーバーダムの建設にも影響を与えた。建設財源の確保が問題となったのである。そこで、500万ドルの建設国債を発行して財源を確保することとなった。これら多くの問題を解決して、1931年にダムの建設が始まった。■様々な叡智が込められたダム建設1931年3月4日、建設事業者の内務省開拓局はダムと発電所建設の入札を実施した。その結果、48,890,995ドルで落札したのは建設会社や設計会社等の6社により設立された、その名もシックスカンパニーズ(SixCompanies Inc.)であった。当時、前例のない巨大ダムCivil Engineering Consultant VOL.266 January 2015027