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写真2ケーブル埋設部と坂道を利用した車庫入口■ケーブルカー路線網の発展ケーブルカーには「つるべ式」と「循環式」の2種類がある。日本で運行されているものは前者だが、サンフランシスコのケーブルカーは後者になる。これは、環状にした鋼線ケーブルを循環させて車両を動かす方式である。ケーブルカーの高い登坂能力はサンフランシスコのあらゆる場所で敷設が可能であり、馬車に変わる交通バン・ネス・アベニューュから始まる。前年の砂金発見から、金鉱脈目当ての人々が殺到し始め、わずか数百人が暮らしていた「集落」は、数年後には数万人が居住する「都市」へと拡大するにつれ、交通インフラも発展した。ゴールドラッシュ後、街は今では観光名所となっているフィッシャーマンズワーフを中心に交易の港町として発展を遂げ、港から丘を上がる交通手段として使われていたのが馬車であった。1869年、サンフランシスコではさほど珍しくもない霧が深くたちこめていた夏のある日、最も高台に位置するノブヒルの濡れて滑りやすくなっていた丸石舗装の急坂で、重い馬車を引いていた馬がスリップして乗客とともに転落する事故が発生した。乗客は無事だったものの、馬が荷物に押しつぶされ命を落とした。ワイヤーロープメーカーの技師であったアンドリュー・S・ハリディは、その光景を目の当たりにし、丘の多いサンフランシスコで馬車よりも安全な交通システムの研究を始めた。アンドリューの父はイギリスのロンドンでワイヤーロープ製造の特許を持っていた。1852年、アンドリューは16歳になる頃にサンフランシスコにやって来た。父のワイヤーロープを使って、シエラ・ネヴァダ山脈の鉱山トロッコを建設した後、ノース・ビーチにワイヤーロープの工場を開いた。その利用をヒントに、アンドリューはノブヒルの頂上付近でケーブルカーの実験を繰り返した。そして、環状で循環する鋼線ケーブルを使ったスキーリフトの原理を応用して、1873年9月1日、ケーブルカーを発明し開通させたのである。ビーチ・ストリート4.8kmmileハイド・ストリートベイ・ストリートジャクソン・ストリートパワーハウスワシントン・ストリートカリフォルニア・ストリート0 0.5コロンバス・アベニュー図1現在の4系統のケーブル配置図テイラー・ストリート3.1km2.8kmメイソン・ストリートSAN FRANCISCOMUNICIPAL RAILWAYCurrent Rope Diagramマーケット・ストリート6.6kmは転車台手段として平坦地の移動にも適していた。現在は電気だが、開通当初は蒸気機関を使った動力室は1箇所に集約できた。互いの間隔さえ守れば複数の車両を同時に走行させることができ、ケーブルを掴めば車両は動き、放せば停まり、付随車の連結も可能であった。こうした事からケーブルカーの路線網は瞬く間に広がり、1880年代以降わずか30年あまりで、8つの会社が誕生し、最盛期には600台の車両が行き交う、サンフランシスコ市街を網の目状に巡る路線網が構築された。その後、路面電車に相当する公共交通機関として、オークランド、ロサンゼルス、カンザスシティ、シカゴ、セントルイス、フィラデルフィア、ニューヨーク、ロンドン、そしてシドニーなどの主要都市に建設された。■廃線危機から保護へ1906年4月18日早朝、M7.8のサンフランシスコ大地震が起こった。ガス管が破裂して倒壊した建物に引火して発生した火災は、数日間燃え続けた。それは建物を爆破し、防火帯を作らなければならなかったほど街中に燃え広がった。ケーブルカーも被災を免れることはできず、大半を焼失する結果となった。大地震後、ケーブルカーは部分的な修復しかされず、大半は維持管理費が約半分の電気トロリーバスに取って代わられた。そして1947年、当時の市長はケーブルカーが利益率の低い乗り物であったことから、バスに切り替える計画を打ち出した。パウエル・ストリートドラム・ストリートCivil Engineering Consultant VOL.266 January 2015031