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写真5銀座煉瓦街的な高炉はない。輸入インゴットを加工して金属部品などをつくる機械工場だった。時代は開国後だが、出島以来交流のあったオランダ人の指導で建設される。工場の壁を煉瓦で積み、屋根こやぐみを支える小屋組という骨組に鉄骨造のトラスを採用。トラスとは、骨組が幾つもの三角形に分割された合理的な西洋式小屋組である。ほどなく慶応元(1865)年に幕府は、お膝元の江戸湾岸横須賀にも製鉄所を建設。後の横須賀海軍工廠だが、第二次世界大戦後はアメリカ合衆国海軍が使用している。横須賀製鉄所建設に際し幕府しょうへいは、フランス人技術者を招聘した。この工事中に江戸幕府が瓦解し、事業全体を明治政府が継承する。施設が一応完成したのは明治4(1871)年。この時に技術者チームの一部は本国フランスへ帰るが、日本に残るメンバーもいた。その人たちが群馬県富岡の製糸場を担当する。この旧富岡製糸場も平成26年に世界遺産に登録され、中心的な木骨煉瓦造3棟が国宝建造物に指定された。長崎鎔鉄所、横須賀製鉄所、富岡製糸場に使われた煉瓦は、直営工場を工事現場近傍に新設して専用に製造された。へいつかさ幣司のちの大阪造幣局。この建物の使しぎの用煉瓦はイギリス系の技術で、鴫野や堺など地元で焼かれた。明治5(1872)年に築地から京橋、銀座そして新橋一帯を大火が襲う。新政府は同年秋に開通する日本初の新橋・横浜間鉄道の表玄関を西洋式の新市街地で整備する。しかも洋風化だけでなく、火災に強い都市とすべく煉瓦の町並みにした。銀座煉瓦街だ。銀座用の煉瓦は英人ウォートルスの指導で、荒川左岸に面した小菅村、今日の葛飾区小菅にホフマン窯3基を新設して焼かれた。ホフマン窯とは独人ホフマンりんが発明したリング状の窯で、国内では輪ようりんかん窯あるいは輪環と呼ばれた新型窯。従来の登り窯のように長い窯を平地に築き、出発点と最後尾を繋いだ円形である。これはエンドレスなため、焼成作業の中断がない。火のついている焼成帯が窯の反対側にある段階で、焼きあげた製品を搬出し乾燥済みの素地を窯詰めして、戸口を土でふさいでおく。こうして余熱を有効に利用しながら、連続して大量の煉瓦を効率よく生産した。小菅のホフマン窯は松の薪を燃料としてスタートしたが、明治18(1885)年以降は石炭の粉を使う。これは粉たんかいたん炭と呼ばれ、商品価値の高い塊炭より安いが熱量は変わらず、そのうえ着火に有利。ホフマン窯の粉炭投入はふんホフマン窯による大量生産明治政府の発足後、初の本格的洋式ぞう工場は明治元(1868)年に着工の大坂造写真6広島県福山市の旧西山煉瓦ホフマン窯014Civil Engineering Consultant VOL.269 October 2015