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写真7愛知県の落合煉瓦登り窯側壁の小窓でなく、天井に約1m間隔で設けられた投炭じゅうのう口の蓋を開けて十能一杯分を15分ごとに続けられた。投炭される燃焼帯は7~8m程度の幅である。ホフマン窯の主流は円形ではなく、陸上競技場のトラックに似た小判型であった。栄枯盛衰煉瓦国産化当初は、使用される煉瓦造建築の工事に対応しながら、現場近くで直営工場が設けられ、当該建築物竣工後は煉瓦工場が解体された。次の時代には建築家が設計に際して最初に煉瓦サイズを決定。煉瓦の寸法を設定すると、目地寸法を含めた倍数で壁厚も壁の長さも決まる。階高など高さ方向も煉瓦なん段分かに相当するモジュールで刻まれる。この時代には建築物1棟ごとに煉瓦寸法が違っていた。当然、煉瓦工場は受注後に新しく型枠を新調して製品をつくり始め、納期に間に合わせねばならなかった。明治30(1897)年代には、各地方で普及している煉瓦に地域性が生じる。東京型や大阪型あるいは特定の鉄道会社で頻繁に使用される寸法が顕在化する。この頃は有力な煉瓦会社が自己の商圏内で、多用される大きさの製品を前もって大量に見込生産した。こうして大正9(1920)年に煉瓦の年産量がピークを迎える。建築と都市の不燃化を目途として国家主導で採用された煉瓦造建築だったが、イギリスやドイツなどゲルマン諸国では障害とならなかった課題が、わが国では致命的な自然災害として突きつけられた。地震である。大正12(1923)年の関東大震災後、大規模な煉瓦造建築は建たなくなる。構造体つまり建築物の骨格が鉄筋コンクリートや鉄骨で構成されるようになる。それでも煉瓦に似た外装材を求めた日本人は、化粧煉瓦またはタイルを考案し実用化した。この流れの中で赤煉瓦は、自ら軽量で味わいある煉瓦タイルへと変身したのである。実に日本的な解決策だ。さすがに今日では粉炭を燃料とするホフマン式輪窯は稼働していない。24時間態勢で投炭する作業は、人件費と職員の確保が難しいためだ。この方式は高度経済成長期に終焉を迎えた。今では長さ30mほどのトンネル窯をつくり、耐火煉瓦の上に乾燥済み煉瓦素地を積んだ台車が、自動的に何十台も並んで1昼夜かけて煉瓦を焼き上げる。燃料は煤煙が少ないA重油だ。Civil Engineering Consultant VOL.269 October 2015015