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図1猿橋の構造(大月市郷土資料館展示資料)写真2 17 5 5年に建てられた石碑写真3 猿王を祭る山王宮ため、まるで寺社のような印象を受け、美しい渓谷と相俟って一層趣深い景観にしている。このように独自の形式と景観かけはしを持つ猿橋は「錦帯橋」「木曽の桟」とともに日本三奇橋と言われている。みうち木造の桔橋は富山の愛本橋や長野の水内橋(久米路橋)など多くの橋が存在していたが、猿橋しか現存しない。なぜ猿橋だけが残っているのだろうか。■猿橋に残る伝説と記録いつ橋が架けられたのかは正確には分かっていない。猿橋の脇にある1755(宝暦5)年に建てられた石碑によれば、かつるい猿王が葛?(サンカクヅル)に跳ね上がってよじ登り対岸に渡ったのを見た人が巨木を倒し重ねて橋を架けたとも、しらこ推古帝(592~628年)の時代に百済からきた志羅呼が、猿王が藤蔓によって渡るのを見て橋を架けたとも言われている。1815(文化12)年に編集された『甲斐国志』に「大嵐村蓮華寺佛像ノ銘ニ嘉禄二年九月佛所加賀守猿橋ノ住民也トアレハ猿橋ト地ニ名ツケシモ已ニ久シキ事」との記述がある。文中の「嘉禄2(1226)年」は鎌倉時代であり、この時代には猿橋という地名がすでに存在していたことが分かる。1487(文明19)年、聖護院道興が紀行文『廻国雑記』で渓谷に架かる橋を猿橋と記述している。しかし橋の形式まおぎゅうそらいでは分からない。1706(宝永3)年には荻生徂徠が『峡中紀行』で橋の下には柱がなく、両岸から巨木を1尺(約30cm)ずつ迫り出すように重ねて橋を架けていると記述している。このころには現在と同じ桔橋形式であったことが窺える。『峡中日記』以降、1768(明和5)年に池川春水の『富士登山記』、前出の『甲斐国志』など多数の文献において桔橋の構造の説明が示されている。なお、『富士登山記』では「昔は葛橋にてありけん、今ははね橋なり」という記述がある。桔橋以前は葛橋、おそらく蔓を用いた吊橋のような構造であったことが示唆されているが、根拠があっての記述なのか筆者の推論なのかは分からない。このように猿橋は、上記以外にも歌川広重の『甲陽猿橋之図』、十返舎一九の『諸国道中金之草鞋』などの絵画や文学作品にも多く登場する。この地は昔から人の往来が盛んで、江戸時代には甲州街道として五街道の一つに挙げられ、幕府によって整備された主要街道である。その道中に存在する急峻で美しい渓谷と、その特異な構造と興味深い伝説をもつこの橋はやはり見るものの心を奪い、多くの文献や絵画に残されてきたのであろう。■河岸段丘に残る溶岩流桂川の流れを見ると、猿橋の上流と下流は共に山あいの河川としては比較的川幅が広くゆったりとしているように感じる。これは河川の浸食作用により河岸段丘が発達し、段丘崖は存在するものの段丘面の広がりがなだらかな印象を与えるためだろう。しかし猿橋付近で川幅は急に狭まり両岸が切り立ち、渓谷の様相を呈している。川幅が狭いため、橋の長さが短くて済むことは容易に想像でき、最も理にかなった場所といえる。なぜこの場所だけ川幅が狭くなっているのだろうか。数千年前、溶岩流が富士山から桂川に沿って30km以上も流下してきた。猿橋溶岩流と呼ばれ、その末端部が猿橋南岸まで到達し、河川が狭まり、もしくは堰き止められた後に、侵食作用により削られて、狭隘で深い谷へと変貌したと思われる。猿橋の西側にはこの溶岩が柱状に固まった柱状節理を見ることができる。■架け替えの歴史このような深い渓谷に架けられたため、猿橋は橋脚のいらない桔橋形式で造られたのであろう。桔橋は両岸よりせり出した桔木によって支える構造になっているため、桔木は両岸の基礎部の地中に深く埋め込まなければならない。木造橋は雨露にさらされるため腐朽しやすいが、桔橋の場合は桔木の埋設部と露出部との境界に雨露が流下して集中するため、さらに腐朽しやすくなる。Civil Engineering Consultant VOL.269 October 2015045