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写真4 桔木が現在より一列多い1984年解体中の猿橋そのため定期的に架け替えをする必要がある。架け替えの記録も古くから残っている。1797(寛政9)年の『往還筋御普請所并自普請之訳書上帳』という記録から、1676(延宝4)年より1792(寛政4)年までの間で13回の修復と架け替えが確認できる。それ以降も猿橋の北側にある月心寺や個人所有の出来形帳に記録が残っている。架け替え工事は二十数年毎に実施され、それに加え補修も実施されている。近代になると交通需要の増加から、より耐久性を持った橋が望まれるようになった。明治時代には海外から鉄橋の技術が入ってくるなど架橋技術が向上し、かつては桔橋形式でしか橋を架けられなかった場所も他の材料や形式で容易に架橋できるようになり、メンテナンスに手間や費用が掛かる木造の桔橋は廃れていった。かつて猿橋と同じく木造桔橋であった愛本橋も木造アーチ橋等を経て、現在では鋼橋となっている。猿橋の場合はどうだったのだろうか。1900(明治33)年の架け替え時には、国道としての交通需要に対応するため、幅員を広げ桔木を2列から3列に増やし、斜材を入れて強度増加を図るなど大きな変更が行なわれたが、桔橋形式はそのまま継続された。時代の変遷や需要の変化に対応しつつも、桔橋形式だけは残そうとする矜持が感じられる。1934(昭和9)年にはすぐ上流に鋼アーチ形式の新猿橋が完成し、猿橋は道路橋としての使命は終えたが、歩道橋として残されることとなった。1932(昭和7)年に名勝に指定されたということもあるだろうが、やはり地名になるほど地域に密着した橋だからこそ、桔橋形式の猿橋を残す選択をしたに違いない。■現在の猿橋へ1951(昭和26)年の架け替えを経て、22年が経過した1973(昭和48)年頃から橋の腐朽・破損のため架け替えが検討されたが、実施されなかった。その後、1979(昭和54)年度に学識経験者や大月市の職員で構成された「名勝猿橋調査委員会」が設けられ、橋の現状・破損状況・構造分析・地盤調査・修理図2 1984年架け替え時の断面図写真5内部にH鋼が入っている行桁の断面図3 19 8 4年架け替え時の側面図046Civil Engineering Consultant VOL.269 October 2015