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写真1(左)米国陸軍工兵隊大佐ジョージ・ワシントン・ゲーサルス写真2(右)クレブラでの掘削工事(1904年)図3パナマ運河全体位置図と運河拡張計画パナマの全権大使のヴァリーヤは1903年11月13日、ホワイト・ハウスでルーズベルト大統領と会見し、アメリカ政府の新生パナマ共和国の承認を取り付けた。彼はアメリカ議会に運河条約を早く批准させるため、コロンビアとの『ヘイ=エラン条約』を、アメリカが占有する運河地帯の幅を16km(10mile)に広げ、その占有期間を永久に与える条文に修正した。1903年11月18日、ジョン・ヘイ米国務長官との運河条約『ヘイ=ビュノー・ヴァリーヤ条約』が調印された。1904年2月26日ワシントンで批准書が交換され『パナマ運河条約』は効力を発した。■アメリカによる運河建設1904年5月4日運河地帯での工事が開始された。翌年、工事現場で黄熱病が蔓延してパニック状態となり、アメリカ人の2/3が帰国。初代技師長の鉄道技師ジョン・F・ウォレスも辞任した。同年、2代目の技師長に任命されたジョン・スティーブンスは、着任後すぐにパナマ市とコロン市での徹底的な清掃を行い、軍医ウィリアム・C・ゴーガスによる黄熱病とマラリアの対策を行った。蚊がこれらの病気を媒介することが分かってきていた。206件もあった黄熱病は、1906年にはわずか1件に激減した。しかし翌年、スティーブンスは精神的疲労により辞任した。3人目の技師長としてアメリカ陸軍中佐(後に大佐)ジョージ・W・ゲーサルスが任命された。工事区間の最大の難所クレブラ・カット工区の責任者はゲイラード大佐であった。クレブラでは合計22回もの地すべりが発生し、そのたびに建設機材が土砂に埋もれ、人的被害も出た。当時最新の蒸気ショベルが50~60台稼働し、土石は貨車で搬送された。この区間の掘削量はフランスの建設時代と合わせて合計2億m 3に及んだ。1910年にはチャグレス川をガトゥン・ダムで堰き止めたガトゥン湖が完成した。湖の面積は423km 2(琵琶湖の63%)で、当時、世界の人造湖では最大の面積を誇った。1913年、大西洋側のガトゥン閘門に3段のゲートが、太平洋側のミラフローレス閘門とペドロ・ミゲル閘門にそれぞれ2段と1段の合計6段のゲートが完成した。各閘門には2レーンの水路がある。工事に従事した人は延べ35万人に達し、アメリカが支出した費用は3億7,500万ドル(現在の金額で約1.1兆円)であった。アメリカによる建設期間中の死者は5,609人、使用されたコンクリート量は344万m 3に及ぶ。正式な運河開通式は1914年8月15日に実施された。パナマ運河の全行程を初めて通行したのはフランスの蒸気船「SSアンコン号」であった。その後、1935年、運河の水源を安定的に確保するため、チャグレス川上流写真3ミラフローレス閘門の建設(1911年)写真4建設中のガトゥン・ダム余水吐(19 13年)写真5 初通過するSSアンコン号(1914年)022Civil Engineering Consultant VOL.270 January 2016