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水洗トイレ、すなわち「川屋」であったのではないかと屋敷”といい獄屋や留置場のもので、価格にも差があっ指摘されている。こうした形式は静岡県の登呂遺跡等たそうである。大名家の糞尿は栄養価が高いとの事で、でも見つかっている。トイレをカワヤ(=川屋)と呼ぶの庶民のものより価格も高かった。獄屋のものはより値がはこうした形式が起源ともいわれる。ただ、こうした立低かったのも想像に難くない。地に恵まれるところばかりではもちろん無く、次第に形明治期以降は、近代的な公衆便所が欧州先進国に成されていく都市ではその処理が問題になってくる。平倣って横浜を皮切りに広まっていくが、家庭のトイレも城京は、道路側溝から水を邸宅内に引き込みその上で含めて汲み取り式で、糞尿を売ることもできた。大正時用を足したり、室内で樋箱に用を足した後にお使えのも代になると、安価な化学肥料が出回ることで糞尿の価のがそこへ流すなどの垂れ流し式や汲み取り式が存在格は低下することもあって、大都市近郊では汲み取り業した。それはわずか16年で廃都になった藤原京や平安者に料金を払って回収してもらうようになる。京でも備えられていたことが調査であきらかになってお本格的に下水道が整備されるようになったのは、第り、排水・衛生事情が遷都の要因のひとつともなったの二次世界大戦後、産業が急速に発展して、都市への人ではといわれている。また汲み取り式は、農業の進歩に口の集中が進んでからのことである。寄生虫の問題もこやしともなう肥の需要とも密接であるようだ。加わって糞尿は徐々に厄介者になっていくが、下肥とし都市の暮らしだけでなく、観光とトイレはどうだったての利用は昭和30年代まで続き、海洋投棄や山林投のか。古くは平安時代の中期頃から、上流階級や富裕棄による処分も行われていた。層が熊野詣、伊勢参り、吉野桜見物、有馬温泉での湯公共的なトイレはどうか。1964年の東京オリンピック治といった団体旅行が始まり、観光の幕開けとなった。を機に、首都高速道路や全国の高速道路、一般道も当初トイレは中国の制度を導入して飛鳥時代に原則30整備された。これは、鉄道主体の旅からマイカーやバえきか里(のちに4里≒16km)ごとに整備された「駅家」にそス旅へと変化をもたらすことにもなる。沿道にはトイレの設備が付帯していくが、旅人はもっぱら野外排泄で休憩のできる外食産業(オートレストラン、ドライブイあったと考えられる。時代が進み観光による人の往来ン等)が現れ、ガソリンスタンドが一定の間隔で生まれが多くなると、川の渡し場や街道の茶屋にも厠や閑所、た。1993年には「道の駅」の登録制度が創設され、当せっちんちょうず旅籠には雪隠・便所・手水場・御手洗・御不浄などとい初は100箇所程度であったが、現在は1,000箇所を越えったトイレが設置されるようになる。る数となり、道路利用者のトイレも含めた休憩や地域の江戸時代の庶民の住まいといえば、「九尺二間の裏歴史・文化・産業などに触れることのできる多機能型休長屋」という間口約2.7m(9尺)、奥行約3.9m(2間)の憩施設となっている。こうした質の高い多機能型のトイ棟割長屋が一般的で、江戸では約7割、大阪では約9レは、高速道路のSAやPAなどで競い合うように広が割の世帯がその長屋に住んでいた。江戸では、長屋の世話役である大家がしにょう共同便所に溜まった屎尿を近郊農家に売ることで収入の大きな部分を占めていた。「大家の子は糞で育つ」という江戸諺もあったそうである。大阪では屎代は大家が取り、尿代は借家人が取しもごえったそうである。下肥にも品質によるランク付けがあった。江戸では、出所によって5段階に分けられ(江戸城のものは別格)、最上等品は“勤番”といって大名屋敷勤番者のもの、上等品は“辻肥”といって街角にある辻便所(公衆便所)のもの、中等品は“町肥”といって町屋のもの、下等品は“たれこみ”といって尿が多いもの、最下等品は“お写真2補助犬専用のトイレCivil Engineering Consultant VOL.271 April 2016009