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Consultant271
写真1丹那トンネル内部より熱海口を望む写真2渇水救済記念碑(中央)図1国府津・沼津間比較図調査されたが、こちらも建設が困難な地形が続くことから御殿場を迂回して沼津へ至る経路が採用され、1889(明治22)年に東海道本線新橋~神戸間が全通した。■熱海線の計画延長60kmの国府津~沼津間の御殿場回りの経路は、両端の国府津駅と沼津駅の標高がそれぞれ海抜20mと8mであるのに対し、途中の御殿場付近の標高は海抜457mにも及ぶ。このためなるべく急勾配を避けた経路が採用されたとはいえ、25‰(1,000mで25m登る)という急勾配が連続し、列車は補助機関車を連結して峠を越えなければならないため輸送上のネックとなっており、抜本的な改良が望まれていた。そこで別線の計画がなされることとなった。比較検討の末、国府津から小田原・湯河原を経て、将来伊豆への鉄道延伸が容易で、温泉地としてにぎわう熱海を経由し、丹那盆地の真下を長大トンネルで貫いて三島・沼津へ至る経路が採用された。この路線は熱海線と呼ばれ、盆地の真下を貫く全長7.8kmの丹那トンネルが建設されることになる。この熱海線経由だと、延長は49kmと10km以上も短縮され、最高標高も海抜79mと平坦になり最急勾配も10‰と大幅に緩和することから、スピードアップと輸送力の増強を図ることが期待された。1915(大正4)年に鉄道院は熱海線建設事務所を設置し、翌年工事に着手した。■丹那トンネルの建設トンネルの建設に先立って、熱海の海岸から熱海口まですんずと、駿豆鉄道大場駅から三島口までの材料運搬のための軽便線の整備が行われた。そして1918(大正7)年、熱海口と三島口からトンネルの掘削が開始された。トンネルの掘削は技術的な困難が予想されていたことから直営施工を基本とし、工事に差し支えない部分については部分請負または切投げする方法が採られた。掘削方法はトンネルの下部中心に底設導坑を掘削し、ズリや支保工を運搬する軽便線を引き込み、天井付近に頂設導坑を掘削し、左右に切り広げて覆工を構築する底設導坑先進工法を主に用いた。丹那盆地一体は火山噴出物の堆積地帯であり、その集塊岩などが堆積した地質の悪い箇所が多く、断層破砕帯も随所にあり、そこには多量の水が含まれていた。このため、大規模な湧水に悩まされることになった。そこで水抜き坑と呼ばれる排水のためのトンネルを掘り進めて排水を促したが、場所によっては水抜き坑を何本も掘らなければ前に進めず、迂回坑を掘った箇所もあったりと工事は難航した。そのため、地下水位を低下させるための圧気工法や地山を強化し止水するためのセメント注入が行われた。しかし残念なことに、三島口から約1.5kmの地点では、湧水が激しい箇所で崩壊が発生し、作業員16名が溺死する痛ましい事故が発生している。また、熱海側では途中の温泉余土に苦しめられた。温泉余土とは集塊岩が地下の温水により変化した粘土で、水に触れると溶解し流れやすく、空気に触れると膨張する性質で、鋼製の支保工が変形してしまいトンネルを掘削するには困難な地質であった。そこで安全に掘削でき、かつ湧水を抑えることができる圧気式シールド工法の施工が水抜き坑で行われた。しかし湧水の圧力があまりにも高く、シールド内で安全に作業ができる程度の空気圧力では到底湧水を止めることができず、さらには岩が崩れ落ちシールドを推し進めることができなくなり、87m掘削したところでやむを得Civil Engineering Consultant VOL.271 April 2016043