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Consultant271
ず圧気式シールド工法を断念し、多数の水抜き坑とセメント注入で乗り切った。水抜き坑の総延長は約15km、トンネル建設に伴い排出した地下水は芦ノ湖3杯分になると言われている。トンネル上部に位置する丹那盆地は豊富な水源に恵まれ稲作や山葵の栽培が行われていたが、トンネル工事により次第に水不足に陥ってしまい、飲料水や灌漑用水が不足する渇水問題が発生した。そのため水道や灌漑用貯水池の整備などの補償が行われたが、稲作をあきらめ酪農へ転換した農家もあった。丹那盆地の一角には、渇水救済記念碑が現在も残されており、渇水問題が当時この地に住んでいた人たちにとっていかに大きな問題だったかを物語っていかんなみる。一方でトンネルからの湧水は熱海市や函南町で現在も水源として利用されている。工事中の1930(昭和5)年にはマグニチュード7.3の北伊豆地震が発生し、丹那断層に2.4m程度のずれが生じた。断層付近の水抜き坑にずれが生じるとともに、本坑においては土砂の崩落がおき3人が犠牲となった。この横ずれは、丹那盆地内の丹那断層公園で見ることができる。1934(昭和9)年、7年の計画を大きく上回る16写真3熱海側坑口年の歳月をかけて丹那トンネルは開通した。同時に東京~沼津間は電化されスピードアップが行われた。開通に伴い熱海線は東海道本線に編入され、御殿場回りのルートは御殿場線と呼ばれることとなった。熱海口の上には丹那神社と殉職碑が建てられ、毎年4月に工事で犠牲となった67柱の慰霊祭が執り行われている。三島口近くにも殉職碑が建てられている。■乗り心地向上のための取り組み1987(昭和62)年に日本国有鉄道が分割民営化される際、熱海口付近に会社境界が設けられることとなり、熱海側となる東側は東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)、西側は東海旅客鉄道株式会社(JR東海)に継承された。当時トンネル内はロングレール化されていなかった。これはトンネル上部からの漏水がレール付近に落下することで、レールやレールを枕木に固定する締結装置に電食(レールを通って変電所に戻る帰線電流が地中に漏出することで生じる腐食現象)が発生しやすい環境にあることから、レール更換を容易に行うためであった。また、噴泥(列車走行の繰返しにより細粒化した道床バラストや路盤土が水と混ざり、泥となって道床表面に噴き出す現象)が発生していたこともあり、乗り心地の悪い状態が続いていた。レールの継目は乗り心地悪化の原因だけなく、発生する衝撃も大きいためレールの損傷や軌道の変位も生じやすく、保守労力低減の観点からも無くした方が好ましい。そこでJR東海静岡支社では、トンネル上部からの漏水をトンネル側面に導くFRP製の漏水防止板の設置(約9,000m 2)や電食対策として締結装置の樹脂コーティングボルトへの交換(約10万5,000本)などの設備改善に取り組んだ。東海道本線は夜間も多数の貨物列車が走る物流の写真4丹那神社写真5熱海側坑口の上に設けられた殉職碑044Civil Engineering Consultant VOL.271 April 2016