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特集長崎?文化の重なりがオリジナリティに?1ポルトガル時代の長崎その開港と町立てを中心に林一馬HAYASHI Kazuma長崎総合科学大学名誉教授現在まで発展してきた国際都市・長崎の基盤を築いたのは、16世紀中頃から来航したポルトガルによるものであった。長崎に新都市を形成することになった経緯や、都市計画にポルトガルが与えた影響とはどのようなものだったのだろうか。大航海時代の渦中でいわゆる大航海時代が始まるのは15世紀。その幕開けを先導したのは、ポルトガルやスペインの勢力(アジアでは特に前者)であった。アフリカ大陸南端の喜望峰を廻り、インド洋沿岸を経由し、マラッカ海峡を越えて、彼らからすれば文字通り「極東」に当たる日本にまで辿り着いたのは、16世紀も半ば近くであった。この勢力の特徴は、新航路を開拓して海外に進出し、そこに新しい交流拠点や植民地を獲得して国際的な貿易販路を拡大するとともに、その地方にキリスト教を宣布することにあったといえる。それゆえ、日本の場合にも、端的には鉄砲の伝来とキリスト教の伝来がほぼ同時的であったわけだが、結果的に見るとこの二つの側面が絡み合っていたところに、その比較的短期での終息が待ち受けていたといえなくもない。ともあれ小稿で扱うのは、16世紀中頃から17世紀前期にかけてポルトガル船が日本に来航していた時代と、その中で新しく形成された海港都市・長崎の草創期ということになる。標題を「ポルトガル時代の長崎」とした所以である。よししげ探題・大友義鎮(宗麟)が支配する豊後の府内(大分)と、天文22年(1552)以降は主に松浦領の平戸といった北部九州に収斂してくるのは、それゆえの必然だったといえる。その地方の領主や有力者たちはキリスト教の布教を容認または擁護し、またそれ以上に貿易による利潤追求に積極的だったからである。こうした情勢に割り込んできたのが、全国初のキリシすみただタン大名となる大村純忠であった。大村領内ではイエズス会の意向を受け、永禄5年(1562)平戸に最も近い横瀬浦が開港されたが、1年後に焼討ちに遭い、廃絶となった。その後、平戸への回帰の動きも出たようだが、大村側が次に用意した港は長崎の西郊に当たる福田であった。しかしここは直接外洋に面し、大型船の長期停泊には不向きであった。そこで登場してきたのが、長崎である。長崎に到るまでの前史ポルトガル船が来航するようになった当時の日本は、戦国時代の真っ只中であって、すでに室町幕府による国家統治は形骸化していた。よって彼らは、自力で日本のどこかに貿易と布教に資する安全な基地を求めざるをえなかった。同時に、彼らの東アジア全体の拠点たるマカオからの往還の容易さ、つまり短路を望むのも自然であろう。その結果、ポルトガル船の来航は次第に九州写真1 国際クルーズ船の来航が相次ぐ現在の長崎港(鍋冠山公園展望台から望む)010Civil Engineering Consultant VOL.272 July 2016