ブックタイトルConsultant272

ページ
13/66

このページは Consultant272 の電子ブックに掲載されている13ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

Consultant272

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

Consultant272

図1『南蛮屏風』(大阪・南蛮文化館所蔵)に描かれた文禄2年(1 5 9 3)頃の「岬の教会」。図中上部にみえる建物群がそれに当たる。下部は位置的には合致しないが、ポルトガル船入港時の町の賑わいを示すものであろう(平凡社ギャラリー4『南蛮屏風』1973より転載)長崎の開港と当初の町立て日本側にはこの経緯を示す相応の史料は残されていないが、ルイス・フロイス著『日本史』(松田毅一・川崎桃太訳)には次のように記述する。なお〔〕内は引用者の補筆である。「ところで福田の港は適当でなく、〔公的な〕定航船はそこでさまざまな危険に曝されたので、司祭〔デ・フィゲイレト〕はそれに代る、より安全な港を探し、ドン・バルトロメウ〔大村純忠〕の領内に留まっていて、それによって布教が援助され保護され得るようにしたいと望んだ。そこで司祭は数人の同行者とともに一人の水先案内を連れ、彼らとともにかの海岸のいたるところ〔を〕廻り、港口の水深を測量して、一番よいと思われるところを探すことにした。その際、彼らは、長崎の港が(自分たちの意図に)最も合致し適していることを認めた。そしてドン・バルトロメウとの必要な協定を行った後、司祭、および定航船の援護のもとに家族連れで住居を設けていたキリシタンたちは、その(長崎に)決定的で確乎とした定住地を創設し始めた」この記事には年次が明示されていないが、長崎の地誌類はこれを一致して元亀元年(1570)のことだったとする。そして翌年の「元亀二年辛未、大村理専(純忠)家来友永対馬(守)と申(ス)者、見分の上、町割仕候」として、「嶋原町、大村町、外浦町、平戸町、文知町〔後外浦町ニ加ル〕、横瀬浦町〔後平戸町ニ加ル〕」の6ケ町を上げる(ここでの引用は『長崎集』に拠る)。事実、この元亀2年(1571)には、長崎にとって最初のポルトガル船の入港が実現し、以後その地位をほぼ独占するに至ったのである。ここに国際的な港市としての長崎が創設されたことは疑えないが、その詳しい内実は必ずしも明瞭でない。これには、長崎ではのちの寛文3年(1663)に市中の9割方を焼く大火があったため、それ以前の同時代的な資料をほとんど滅失したという根本的な理由がある。それゆえ実証的な解明は難しいのだが、これまでの通説や先学による研究蓄積を踏まえつつ私見の概要を整理しておくと、以下のようになる。1この元亀元年以前にも、長崎近辺には在地勢力がなかったわけではない。とりわけ現在の市街地東部に位置する桜馬場・夫婦川一帯には、地頭としてすみあげ長崎甚左衛門純景が居て、すでに永禄10年(1567)にはその膝下に修道士アルメイダが布教に派遣されていた。そして同12年(1569)には後任の宣教師ヴィレラが、長崎で最初の教会トードス・オス・サントス(諸聖人の意)を設立してもいた。彼らはもちろん海路も使っていたはずだから、長崎はすでに開港されていたとみなされる。すなわち元亀2年の「開港」とは、あたかも新大陸の「発見」と類似した趣意があったということだ。2しかし同時に、この開港に随伴した新都市の建設には画期的な様相が認められる。ポルトガル側、とりわけフロイスも言うようにイエズス会の意向が優先していたことが留意される。事実、6ケ町が位置する岬状の高台の突端部(現県庁の場所)には、当初から「岬の教会」が建ち、そこがイエズス会の本部とされていたようなのである。天正7年(1579)に巡察師として来日したヴァリニャーノは、そこが要塞化した修院であることを強調しているが(『日本巡察記』)、Civil Engineering Consultant VOL.272 July 2016011