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CBA図2『寛永長崎港図』(長崎歴史文化博物館所蔵)の市街地部分。白地が内町、赤地が外町の領域を表わすが、この図自体は17世紀後半における推定復元図とみられる。図中に記入したA、B、Cの部分がそれぞれ町立て当初における岬の教会、6ケ町、水夫町(下から順に樺島町・五島町・舟津町)の位置を示す実は単に隔絶した聖域であるにとどまらなかった。高瀬弘一郎氏の研究によるとイエズス会士が通商を仲介し代理する「(当時最大の輸入品だった中国産の)生糸の取引所」、つまりそこは交易の市場でもあったと考えられるのである。そしてこの岬の先端部を要塞化した姿は、安野眞幸氏も指摘するようにペルシャ湾の入口にポルトガル人が築いたホルムズ要塞の都市景観と酷似する。すなわちこの町立ての構想自体は、ポルトガル側にあった公算が高いと推断されるのである。3この推論が正しいとすれば、その前面に展開する6ケ町とは、ここでの交易を目的に参集した各地の商人たちを主体とする、いわば「門前町」だったと解するのが適切であろう。その中には各地から逃れてきたキリシタンが多く居たにせよ、イエズス会士の誇張をまともに受け取るには及ぶまい。同時に、大村氏がこの町立てに果たした役割も、領主としての差配、つまり「町割」という調整的側面に留まると見るべきではないか。実際、その中に含まれる嶋原(有馬領の意であろう)町や平戸町は、それ以前からポルトガルとの交易実績をもっていた領外の人々の集積とみるほかないからである。また、外浦町は大村城下の郊外という意味ではなく、横瀬浦町があることからしてもむしろ直前の福田港を指すのではあるまいか。さらに文知町が中国人名にもとづくかどうかは不詳としても、中国船の来航は当然にそれ以前の港から引き継がれていたに違いない。4当初に町立てされたのは、大村氏が直接に町割を差配した6ケ町に限るかどうかも疑問といえよう。のちの内町に含まれる(本)博多町や豊後町などは、推定されるその性格からして間断なく立てられた可写真2 高台の6ケ町と港湾に面する樺島町(左手)を区切る崖の石垣遺構012Civil Engineering Consultant VOL.272 July 2016