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図3もう一つの『寛永長崎港図』(長崎歴史文化博物館所蔵)に描かれた築造当初の出島の姿。表門がまだ江戸町側にあり、西側の水門部分に築き出しがない点が注目され、現存では最古の「出島図」といえる能性が高いかと思われる。だが、その6ケ町とそれ以外の町に、安野眞幸氏が想定されるような船宿の国籍的な違いがあったかは疑われる。それよりはむしろ、高台の崖下にあって港湾に直面して並ぶ樺島町・五島町・舟津町の3町は、港市として欠くことがでかこきない「水夫町」として、しかもそれぞれポルトガル・中国・国内向けというように対象別に立てられていたのではないか、と考えられる。ポルトガル時代の終焉こうして設立された国際的な港市・長崎は以後、曲折を経ながらも発展の一途を辿る。ただ大局的に見ると、その主潮は自治的な自由交易都市としての特性が、天下統一を成し遂げた豊臣政権による天正16年(1588)の直轄領化を契機に、次第に統制が強められ、「城下町」的な近世都市へと変容していく過程だったと捉えられよう。そしてその実状は、禁教政策によってキリスト教勢力を阻害し、通商行為としての貿易に特化すること、続けて海禁(鎖国)政策と連動してその貿易の主導権を日本側に取り戻すことだった、といって大過ないであろう。寛永11年(1634)、かつての「岬の教会」の跡を江戸幕府の奉行所が襲い、その真下の海中にポルトガル商人を封じ込める「監獄」としての出島を寛永13年(1636)に築造したのは、まさにポルトガル時代の終焉を告げる象徴的な出来事だったといえよう。さらに寛永16年(1639)にはポルトガル貿易自体を停止し、寛永18年(1641)に空き家となった出島には宗教的野心を伴わないオランダ商館を平戸から移転せしめて、あくまで貿易に固有の権益は堅守しようとした。しかし同時期には、迫害を生き延びた長崎や平戸の周辺地域に住むキリシタンたちは、その後2世紀以上に及ぶ長い潜伏の道を秘かに歩み始めてもいた。この輻輳した歴史が長崎の独特な都市文化を彩り、今もその魅力に奥深さを与えていると感じる。<主要参考文献(史料類及び論文は除く)>1)古賀十二郎『長崎開港史』1957、古賀十二郎翁遺稿刊行会2)原田伴彦『長崎歴史の旅への招待』1964、中公新書3)ディエゴ・パチェコ『九州キリシタン史研究』1977、キリシタン文化研究会4)高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』1977、岩波書店5)加藤章・外山幹夫他『わが町の歴史長崎』1984、文一総合出版6)中村質『近世長崎貿易史の研究』1988、吉川弘文館7)大村純忠顕彰事業実行委員会編『キリシタン大名大村純忠の謎』1989、西日本新聞社8)安野眞幸『港市論平戸・長崎・横瀬浦』1992、日本エディタースクール出版部Civil Engineering Consultant VOL.272 July 2016013