ブックタイトルConsultant272

ページ
16/66

このページは Consultant272 の電子ブックに掲載されている16ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

Consultant272

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

Consultant272

特集長崎?文化の重なりがオリジナリティに?2ちゃんぽんと長崎華僑陳優継CHIN Masatsugu株式会社四海樓代表取締役社長長崎に今も当たり前のようにある中国文化といえば、食では「ちゃんぽん」、祭祀ではペーロンやハタあげなどであろう。近年では「長崎ランタンフェスティバル」が風物詩として定着している。長崎が中国文化を受容する過程で、華僑が果たした役割とはどのようなものだったのだろうか。長崎華僑華僑の生き方は「落地生根」と表現される。一粒の種が地に落ちて、芽生えて根を張り、枝をつけ、やがて大樹となるように、故郷を遠く離れ、海を渡って異国の地にたどり着き、その地の人々となれ親しみ合う。その地の習慣にもなじみ、家業を起こし、家庭を築き子孫を増やし、円満に暮らしていく。やがてはその地の土に帰するさまをいうのである。いろいろな宗教や文化、風習をもって渡来してきた先人たちは、長崎に根を下ろして寺院や祠堂などを造り、様々な様式を残してきた。中国古来の風習はそのまま伝承され、既に本国では廃れつつあるものが、長崎華僑の暮らしの中に現存している。華とは中国、僑とは仮の住まいという意味を持つ。私たちは中国籍を持ちながら長崎に暮らし、中国の伝統文化を受け継ぐ長崎華僑なのである。ちゃんぽん誕生1892(明治25)年、こうもり傘一本だけを持って中国大陸から長崎へ渡って来た若者がいた。福建省福州の出身、19歳の陳平順である。平順は「長崎でひと旗揚げよう」と、新地で砂糖貿易商を営む縁者の益隆號をたよってきた。平順は身元保証人の益隆號からお金を借りてリヤカーに反物を積み、行商をしながら資金を貯えていった。1894(明治27)年に始まった日清戦争を機に華僑に対する風当たりが強くなったが、平順は侮蔑の眼差しに耐えながら、無心に働くことで苦境を乗り切った。そして渡航から7年後の1899(明治32)年、明治の初めまであった唐人屋敷の大門付近にある広馬場に中華料理店兼旅館の「四海樓」を創業した。平順は、自分が長崎へ渡ってくるときに苦労したことや世話好きの性格も手伝って、中国から渡航してくる華僑や留学生の身元引受人になっていた。そんなとき、食べ盛りの留学生のひどい食生活を見るに見かねて「どうにかしたい」と知恵を絞ってできたのが「ちゃんぽん」であった。安くてボリュームがあり栄養満点の「ちゃんぽん」は、留学生の食生活向上に役立ったばかりか、たちまち長崎中にひろまっていった。うどんこの四海樓で生まれた「支那饂飩」が明治末期には「ちゃんぽん」と呼ばれるようになり、長崎で最も親しまれている麺料理になった。ちゃんぽんのベースは故郷でとんにいしいめん食べていた福建料理の「湯肉絲麺」である。これは麺を主体として豚肉、椎茸、筍、ねぎなどを入れたあっさりしたスープである。これに平順がボリュームをつけて鶏ガラ豚骨のスープ、長崎産の豊富な具材、唐灰汁を使った独自のコシのある麺を考案したものが「ちゃんぽん」である。今日では農作物の生産技術や保存技術、流通の発達により食材が年中調達できるが、当時はそういうわけにもいかず苦労していた。そこで、長崎近海でとれる海産物、蒲鉾、竹輪、イカ、うちかき(小ガキ)、小エビ、豚肉、もやし、キャベツを使ったことが「ちゃんぽん」の起こりとなった。当初は、季節による食材を使っていたことから「ちゃんぽん一杯で四季が感じられる」料理と評さている。また、長崎の山海の幸を使っていることから、長崎であったからこそ創りだされた郷土料理であり、014Civil Engineering Consultant VOL.272 July 2016