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写真1陳平順長崎で生まれた中華料理といえる。「ちゃんぽん」が多くの人に食べられるようになってきたある日、平順は娘の清姫から「ちゃんぽん」を商標登写真2四海樓の「ちゃんぽん」録するよう勧められたことがあった。平順は「華僑の仲間や留学生、長崎の人にかかわらず大勢の人に食べてもらえたら、それで満足だ」と言って聞き流した。その後1907(明治40)年発行の『長崎県紀要』に支那留学生の好物として「ちゃんぽん」が紹介され、1914(大正3)年発行の『長崎案内』にも長崎名物最大流行の第一番として「支那うどん」が紹介されるほどになっていった。もし「ちゃんぽん」を商標登録していたなら、四海樓という長崎の一中華料理店のハウスヌードルとして終わっていたかも知れない。つまり、平順の思いやりの心が「ちゃんぽん」を広めることになったのだ。また、平順は「ちゃんぽん」の麺を使い「皿うどん」を考案した。使う食材は「ちゃんぽん」とほとんど同じであるが、調理の仕方が異なる。当時は麺ものとなると深い器で食していたが、皿に盛ってだされたインパクトが非常に強く、そのまま「皿うどん」と名づけられた。さらに、太麺の「皿うどん」は調理に手間がかかるため、もっと簡便にできないかと考えられたものが、細い麺を揚げた上から餡かけをした揚麺の「皿うどん」である。日中交流長崎史明では隆慶元年となる1567(永禄10)年、明朝は約200年続けた海禁を解いて、商船の南海方面への出向貿易を許したが、日本への渡航は許されていなかった。そのため、徳川家康は日明勘合貿易を熱望したが実現しなかった。しかし、このことがきっかけとなり福建周辺の貿易業者の間に反響が起こり、徐々に来航するようになった。ところが、幕府はキリシタン宗門弾圧及び外国貿易統制の強化から1635(寛永12)年に鎖国をし、交易は長崎に限定して受け入れることとした。当時は、いわゆる密貿易であったため、明人は自らを「唐人」と名乗ってその存在をぼかした。ところが、唐人の名称は広く使われて中国人を指す言葉となってしまった。彼らは長崎華僑の前身となる中国人であった。唐人貿易で最も賑わった時期は、1688~1710(元禄元~宝永7)年に至る22年間で、毎年7~8隻のオランダ船と60数隻の唐船が長崎にやってきていた。最も多い時は、唐船は117隻も来航していた。絹糸・織物・漢方薬・砂糖などが輸入され、金・銀・銅が対価として輸出されアワビフカた。途中で俵物(干しナマコ・干し鮑・鱶の鰭など)の輸出が増えている。当時の人口も長崎人約6万人のうち約1万人が唐人であったという。この間、長崎人と中国人の間には親密な関係が築かれるようになり、中国の古の習慣などが自然と長崎の文化に大きな影響を与える環境ができ、ハタあげやペーロンなど様々な風習や行事が生まれたのである。1689(元禄2)年には、密貿易の防止やキリスト教の取締り、風紀上の問題などを理由に、唐人の市中散宿を禁止し、出島のオランダ人同様に唐人を一定区画に収容することにした。半年の短い期間で約9,363坪Civil Engineering Consultant VOL.272 July 2016015