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(約36,319m 2)の土地が造成され、総工費は銀634貫(現在の価格で約7.8億円)かかったとされている。これが唐人屋敷であり、当初に4,888人が収容されたのである。しかし、1858(安政4)年の開港により長崎は唯一の貿易港としての特権が失われ、唐人屋敷の必要性がなくなり、処分されることになる。現在、長崎の中華街である新地町は、もともとは新地蔵とか新地蔵所と呼ばれ、唐人貿易の倉庫として使われていた。約3年かけて、新しく埋め立てて造られた約3,500坪(約11,570m 2)の土地なので「新地」と呼ばれた。1868(明治元)年には新地が町名となり、1899(明治32)年に中国人の市街地雑居が許されるようになると、倉庫が店舗や住宅に改造され、しだいに市街地化していった。支援をすることに決まった。同年末までに軍資金として4,000円(現在の価格で約500万円)を集め、中国紅十字社を通じて革命軍に贈っている。また、革命支援のために多くの留学生や華僑青年が長崎に集結し、上海に渡って行った。1カ月以上に及ぶ日本での表敬訪問を終え、3月21日に再び長崎入りした孫文は中国領事館で開かれた歓迎晩餐会で、「日中の国際的同盟、人種的締盟は将来益々必至に迫られるが故に各在留民諸氏も又其の積もりにて益々親密を図り東洋の平和のため、また両国の利益のために大いに努力を希望する」と、列席した20数名の華僑代表に向かって激励の言葉を贈っている。翌22日には華僑主催の歓迎午餐会が開催された。新地・広馬場では、孫文を歓迎する五色旗が各戸に掲孫文と長崎2016(平成28)年、生誕150年を迎える孫文は1913(大正2)年2月13日、山城丸という船で長崎港に入ってきた。臨時大統領に就任した後、袁世凱に大統領の地位を譲り、鉄道総裁としての公式訪問であった。実は孫文は辛亥革命に至るまでに非公式に9回も長崎を訪れている。日本には孫文の支援者が多くおり、長崎華僑の中にも孫文と深くかかわっていた者がいた。1911年に辛亥革命が起きると、長崎中華商務総会の華商40余名が西浜町の精洋亭で、中華民国華商統一聯合会の呼びかけに応じて、長崎華僑も孫文の革命写真3福建会館大階段での孫文記念写真(大正2年)写真4明治・大正期の四海樓写真5現在の四海樓016Civil Engineering Consultant VOL.272 July 2016