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特集長崎?文化の重なりがオリジナリティに?4シーボルトと日本の近代科学宮坂正英MIYASAKA Masahide長崎純心大学教授ドイツ人医師シーボルトの代表的な功績は、近代医学を日本に伝えたことであろう。しかし、動植物や日本の文化を海外へ伝え、また日本に「科学」を広めたのが彼であったことは良く知られていない。シーボルトの真の功績とはなんだったのだろうか。「名医」としてのシーボルト日本医学の近代化に大きな足跡を残したドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、今から150年前の1866年にバイエルン王国の首都ミュンヘンで70年の生涯を閉じた。27歳で鎖国期の長崎の出島オランダ商館付き医師として来日して以来、40年余りを日本研究に生涯を捧げた人物であった。近代医学を伝えた医師としてのシーボルトや疑獄事件の主人公としてのシーボルトは大変有名であるが、シーボルトがなぜ日本にやってきて、何をしようとしていたのかはまだあまり知られていない。シーボルトは来日当初から「西洋の名医」としてその名写真1エドワルド・キヨッソネ『シーボルト肖像』(版画)が知られ、日本各地から門人たちが医学を修めるために長崎に集まってきた。シーボルトの薫陶を受けた日本人は100名余りであったといわれる。ではなぜ短期間これだけ多くの日本人医学生がシーボルトのもとに集まったのか、その答えはシーボルトがドイツで受けた教育にあった。シーボルトは1796年にドイツ中部の学園都市ヴュルツブルクに同地の医学部教授の長男として生まれている。生誕当時、祖父と叔父の二人が医学部教授を務めており、シーボルト家は医家の名門であった。特に祖父カール・カスパール・フォン・シーボルトは「ドイツ近代外科学の父」と呼ばれるように、外科学の近代化に大きな足跡を残した人物である。シーボルトは祖父の実施した大学での教育改革のおかげで、当時最先端の教育を受けることができた。シーボルトの受けた医学教育は、現代医師に必要な基本要素である人体に関する基礎知識、疾病の診断、治療を兼ね備えた人材の養成を目指したものであった。具体的には解剖が医学生全員の必修として義務付けられ、病院での臨床研究も盛んに行われるようになっていた。このような教育を受けたため、シーボルトは日本人の門人たちに医学の基礎から臨床研修まで体系的に教授することができた。シーボルトは「日本人は大変好奇心の強い民族であるが、最近ではその好奇心が知識欲に代わっている」と故郷に書き送っている。シーボルトが来日した頃の日本は、蘭日辞書が編纂され、徐々にではあるが西洋医学に関心を抱く人々の独学が始まっていた時代であった。022Civil Engineering Consultant VOL.272 July 2016