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対処療法的な知識の伝授だけでは飽き足らない日本人たちに、体系的な知識をもつシーボルトが高く評価されたのは自然なことであった。シーボルトが日本へ向かった理由シーボルトは医家の名門の出ではあるが、幼いころは経済的に恵まれない生活を送っていたといわれる。困窮の最大の理由は父の死であった。2歳の時に父を肺結核で失ったシーボルトは母とともにヴュルツブルク近郊のハイディンクスフェルトという小都に移り住み、カトリック司祭を務めていた母の兄ヨーゼフ・ロッツに育てられた。だが、祖父や父の人間関係から、多くの学問上の支援者を得ることができた。なかでも、父の同僚で比較解剖学の教授を務めていたイグナツ・デリンガーの薫陶はシーボルトの将来に大きな影響を与えた。一族の伝統に従いヴュルツブルク大学医学部に進学したシーボルトは、デリンガーの研究所を兼ねた住居に寄宿し、当時最先端の研究施設や文献を自由に利用することができた。後にシーボルトが日本人に教えた顕微鏡による観察も、この研究施設での経験がもとになっている。デリンガーがシーボルトに与えた大きな影響は医学分野にとどまらなかった。当時のドイツでは、実証に基づく科学的な研究が大きな勢力になりつつあり、デリンガーは観察や実験に基づく科学の最先端をゆく研究者でもあった。こうした流れの中で、ヨーロッパの研究者の視線が未開の地である中南米やアジア、アフリカに向けられ、多くの研究者が探検調査に参加している。デリンガーの息子も中央アフリカの学術調査を行っており、シーボルトの眼もおのずと海外に向けられるようになったと考えられる。シーボルトはドイツ在住の時代から日本に関心を持っていたわけではない。当初シーボルトの眼はインドネシアやブラジルに向けられていた。海外渡航の直接のきっかけは1821年にジャワ島で大流行したコレラであった。当時オランダの植民地であったジャワ島では医師が不足し、これを補うためにオランダ政府は派遣する若手医師の募集を行っていた。たまたま、オランダ陸軍軍医総督を務めていたヨーゼフ・ハールバウアーが、ヴュルツブルク大学の卒業生であったため募集を行い、10名あまりの若手医師とともにシーボルトはオランダ領東インド(現在のジャワ島)に派遣されることになった。シーボルトは当初現地で一般病院に勤務しながらインドネシアの動植物の研究をするつもりでいた。ところがハールバ写真2 門人提出論文、石井宗謙『日本の植物名について』(フォン・ブランデンシュタイン家所蔵)ウアーがシーボルト一族の門人であったことから、特別の計らいでオランダ領東インド陸軍の軍医少佐に任官され、破格の待遇でインドネシアに渡ることができた。インドネシアに渡航したシーボルトには幸運な出会いがめぐってきた。当時の最高責任者である総督ファン・デア・カペレンの知遇を得て、交代の時期を迎えていた長崎出島商館付き医師の後任としてシーボルトに白羽の矢が立ったのであった。当時オランダ領東インド政府は日本への関心が高まっていた。ナポレオン戦争によって一度は国家が消滅したオランダはアジアにおける貿易の再建が急務で、そのためにいまだに情報の少ない日本の自然や社会を総合的に調査する必要にせまられていた。医療のみならず博物学に精通したシーボルトはまさに適任の人物であったのだ。またシーボルト自身にとっても、当時のヨーロッパでは極端に不足していた日本に関する調査研究は、学問的な名声を掴むまたとないチャンスであった。かくしてシーボルトは、1823年6月日本へと旅立った。「シーボルト出島日本研究所」の創設1823年(文政6)8月、出島に着任するとシーボルトは診療活動の傍ら、早速日本研究に着手した。出島から許可なく外出することがままならなかったシーボルトCivil Engineering Consultant VOL.272 July 2016023