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は、調査を行うための方策を考えなければならなかった。そのための最も有効な手立てが、日本人に対する診察と医学教育であった。シーボルトが来日した時期、出島に出入りし出島商館に勤務する西洋人医師から医学を学ぶことは始まっており、前任の医師に付いて医学を学んでいた日本人医師たちを最初の門人として出島で講義を始めた。また長崎奉行の許可を得て、長崎市中の蘭学塾に出向き、日本人の診療も開始した。このことにより、シーボルトは自らの日本研究を補助する門人やオランダ通詞たちを得ることができた。日本語のできないシーボルトにとって、これらの人たちの協力は得難いものとなった。さらにシーボルトを派遣したオランダ領東インド政庁からは財政支援ばかりではなく、人的な支援も得ることができた。そこでシーボルトは来日の2年後、研究助手として薬剤師であるハインリッヒ・ビュルガーと学術的な絵画を描かせるためにC. H.フィレネーフェをバタヴィアから招聘した。このほかにも出島商館員数名がシーボルトの日本観察に協力し、出島はさながら「日本研究所」のようになった。「鳴滝塾」の開設来日した翌年、シーボルトは長崎奉行所の許可を得て長崎の近郊鳴滝に学塾を開設し、多くの日本人たちに定期的に講義を行う機会を得た。これが世にいう「鳴滝塾」で、西洋人が日本で開設した初めての私的な教育施設であった。当時の史料に「鳴滝塾」という固有名詞は現れないので、このような名前は付けられていなかったが、門人の高野長英が「シーボルト阿蘭陀塾」と呼ぶ、れっきとした学塾であった。建物はもともと諏訪神社の宮司、青木家の別荘であったが、阿蘭陀通詞中山作三郎からシーボルトが入手したもので、家の敷地にはバタヴィアに輸出するために日本各地から集められた植物が植えられていたという。シーボルトはここに週数回通い、門人たちに医学ばかりでなく西洋科学全般の講義を行ったという。写真3鳴滝塾模型(ミュンヘン国立五大陸博物館所蔵)ちなみに、このとき塾舎として使用されていた別荘の精巧な模型が、ミュンヘンの五大陸博物館(旧ミュンヘン国立民族学博物館)から発見されている。科学に目覚めた日本人たちでは、シーボルトが開設した鳴滝塾とはどのような施設だったのだろうか。鳴滝塾の実態を記した史料は残念ながらほとんど残されていない。わずかに長崎に遊学し、鳴滝に学んだ門人の日記や書き残した書物、書簡の記述で知ることができるのみである。シーボルト自身も鳴滝塾については多くを語っていないが、書簡などの記述からシーボルトが何を目的に開設したかを知る手がかりを得ることができる。開設した年に故郷のドイツに住む母や親戚に送った手紙の記述のなかに興味深い一節がある。当時ベルリン大学医学部教授であった叔父アダム・エリアス・フォン・シーボルト宛ての手紙で「今、鳴滝という長崎郊外の谷間から、日本中に科学の光が差し始めている」と書き送っている。シーボルトが鳴滝塾で門人を集めて医学に関する講義を行ったことは知られているが、科学の光が差し始めたとはどういうことなのだろうか。この手掛かりは、シーボルトが門人たちに日本に関するさまざまなテーマについて書かせて提出させたオランダ語の論文の中にある。ドイツにあるルール大学ボッフムに024Civil Engineering Consultant VOL.272 July 2016