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は40点余りの日本人が提出した論文が保存されているが、そのいくつかにはシーボルトの筆跡で訂正が加えられている。シーボルトは門人たちに学術論文の書き方を教えていたのだ。これ以外にもシーボルトは門人たちに特定のテーマを与え、調査や観察方法、器具の使い方などについても教えている。これはまさにシーボルト自らがヴュルツブルク大学で学んだ観察や実証実験に基づく科学的な手法の伝授であった。科学の普遍的な価値は、シーボルトのもとで学んだ日本人門下生に確実に受け継がれ、明治以降の日本の近代化の礎となった。日本開国戦略としての科学シーボルトはなぜ日本人に科学の有用性を伝えようとしたのだろうか。シーボルトが日本人門人に科学を教えこんだ目的の一つは、すでに述べたように、日本に関する資料や情報を効率的に収集するための協力者として、学術的な手法を身につけさせることであった。しかしシーボルトがもう一つ深淵で壮大な計画の実現のために科学教育に情熱を注いでいたことが、様々な資料から浮き彫りになっている。それは科学による日本の開国であった。19世紀初頭にはすでに西欧列強の東アジア進出が始まっており、シーボルトは武力によって開国を迫れば、愛国心から日本国内に政治的混乱が起こるという危機感を抱いていた。鎖国政策を続ける日本を自主的に開国へと導くには、日本人に科学という世界共通の普遍的な価値を認めさせ、科学技術の導入のために自主的に開国させることだと考えていた。そのためには科学技術の有用性に目覚め、率先して普及させる人材の養成が必要不可欠であるとシーボルトは考えていた。実際、シーボルトのもとで学んだものの中から、東京帝国大学の前身の一つである神田種痘所を設立した伊東玄朴、日本における植物分類学の草分けとして日本初の理学博士となった伊藤圭介など、次世代を担う日本人学者が育っている。シーボルトが最終的に日本を去った1861年(文久元)の僅か6年後に徳川幕府は終焉を迎え、西洋から科学技術を全面的に受け入れようとする明治新時代を迎えた。蘭学が厳しい弾圧を受け、シーボルト自身も幽閉を余儀なくされたシーボルト事件から40年余して、鳴滝から射しはじめた科学の光はようやく日本全体を覆うようになった。<写真提供>写真1?3筆者写真4金野拓朗写真4鳴滝塾跡に隣接するシーボルト記念館Civil Engineering Consultant VOL.272 July 2016025