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特集長崎?文化の重なりがオリジナリティに?5トーマス・グラバーと長崎居留地の文化ブライアン・バークガフニBrian Burke-Gaffneyグラバー園名誉園長長崎総合科学大学教授重要文化財であるグラバー邸の名は、長崎を訪れたことが無くても聞いたことがあるだろう。しかしその住まい手であったグラバー自身については、一般的に良く知られていない。日本を愛したグラバーの暮らしや、日本文化への貢献はどのようなものだったのだろうか。鎖国と長崎徳川幕府により遂行された長い鎖国時代の中で、長崎は日本で唯一世界に開かれた港であった。日本との通商権を与えられていたオランダ人と中国人はそれぞれ、江戸町前面に造成された人工の島「出島」と十善寺郷に開設された「唐人屋敷」に居住させられていた。彼らは200年以上もの間、現地の日本人と平和的に貿易を行い、多様性に富んだ独特の地域文化の発展に貢献した。しかし、イギリスのアヘン戦争における圧倒的な勝利や東アジアへの進出は、徳川幕府が維持してきた鎖国政策がこれ以上続けられないことを明白にした。ついに安政5年(1858)、日本はイギリス、ロシア、フランス、オランダそしてアメリカと条約を結び、複数の港を開港することを承諾した。これらの開港場では海外貿易が許され、外国人が自由に活動できる居留地の創設が容認された。長崎における外国人居留地の場所として、街に隣接する大村藩領の大浦戸町村が選び出された。安政6年(1859)7月1日に公式な開港がなされると、条約国の商人、技師や宣教師が次々と訪れるようになった。日本を愛したトーマス・グラバー開港後いち早く長崎に上陸した外国人の中に、トーマス・ブレイク・グラバー(Thomas Blake Glover)がいた。グラバーは1838年、スコットランド北東部の港町フレーザーバラで生まれ、安政6年(1859)9月にジャーデ写真1 長崎居留地・大浦地区の町並みと南山手を望む。明治元年(1 8 6 8)頃。左端上部の建物は老松を抱くように造られたグラバー邸。手前の大浦地区では洋風の倉庫や商店が軒を並べる写真2 南山手の目印となっていたグラバー邸の老松026Civil Engineering Consultant VOL.272 July 2016