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写真3グラバー商会は英字新聞『ナガサキ・エクスプレス』に高島炭鉱の石炭広告を掲載した写真5 小菅の西洋式ボートハウス。明治15年(1882)頃「長崎競争運動協会(NRAC)」によって建設された。幕末から始まった長崎居留地のボートレースは次第に国際色豊かなものへと成長したィン・マセソン商会の事務員として21歳の若さで長崎に来た。文久元年(1861)に独立した彼は、翌年写真4トーマス・グラバーと三菱社の二代目社長・岩崎弥之助にグラバー商会を立ち上げた。グラバー商会は日本茶、樟脳、角材などの産物を輸出し、中国や東南アジアの雑貨、香辛料、金属類など、日本南西部の各藩が要求する商品を輸入した。商人としてやり手だったグラバーは、薩摩藩や長州藩などの西国雄藩へ中古船や武器の貿易を始めた。本来ならば船の輸入は幕府の許可が必要であり、武器などの輸入は禁止されていた。しかし、倒幕を考えていた藩にとっては、すぐにでも武力を高める必要があり、グラバーにとっても大きなビジネスチャンスになる。双方に利益をもたらした貿易は、グラバー商会が倒産するまで続いた。さらにグラバーは、長州藩や薩摩藩の藩士たちをイギリスへ密航させるという、自分の身も危うくなるほどの肩入れをしている。貿易商人としての立場を超え、国禁を破ってまで藩と協力した背景には、グラバーとその客との親密な関係があったようだ。文久3年(1863)に長崎のイギリス領事ジョージ・モリソンが上司に送った報告書には「グラバー氏は日本語に長け、社交的で、高い階級の日本人と友好関係を持っており、彼らにとても尊敬されています」と述べている。この事実から、グラバーの日本を理解しようとする強い姿勢が明確に現れている。史料が乏しく推測しかできないが、幕末の志士たちは正直かつ有言実行で、約束を守り、対等な姿勢で取引に臨むグラバーに好感を持っていたようだ。加えて、日本人女性の恋人たちも、グラバーにとって日本の言語と文化を学ぶよき先生となったといえる。居留地の暮らし長崎居留地に建物が建ち並び人口が増加してくると、居住者たちは様々な組織や委員会を作った。これには居留地の日常的な運営や日本当局との交渉を取り扱う自治会、貿易の管理や密輸の防止を担当する商工会議所などがあった。その他、文久2年(1862)10月に東山手11番地に建てられた日本最初のプロテスタント教会堂や、居留地の東側で現在は川上町にある外国人専用墓地(大浦国際墓地)に関する事務を処理するものもあった。大浦周辺の埋め立て工事と山手の整備が終わり、オランダ商館が古くから置かれていた出島や多くの中国人が住む新地も編入されるなど、長崎居留地は次第に拡充されていった。また、長崎の外国人居留者たちは数々の施設をつくり、休養と社交を図った。その中には、居留地の紳士たちが集う「ナガサキ・クラブ」があった。さらに、長崎競Civil Engineering Consultant VOL.272 July 2016027