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争運動協会(長崎ローウィング・アンド・アスレチック・クラブ:NRAC)はボートレース大会やその他の社交イベントを毎年数回開催し、トーマス・グラバーを含む若い居住者たちがほとんど参加した。大浦31番地にあったパブリックホール(公民館)もまた居留地での行事を行う重要な施設であった。パブリックホールは会議、外国軍艦の楽隊を招いてのコンサート、ダンスパーティーや講演会の場としてよく使われた。長崎の中国人たちもまた独自の社交組織を結成した。出身地が同じで言葉や文化の面でより通じ合える者同士がビジネスや社会福祉を向上するために、福建会館、三江会所と広東会所をそれぞれ居留地内に開設した。外国人たちの食文化も日本に大きな影響を与えることになる。開国後、居留者たちがベーカリー(パン工場)、搾乳場や畜殺場などを開設し、西洋の家具や食器類を輸入した。居留地の狭い範囲の中で、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、中国など、さまざまな国籍の人々が住み、本国の家庭料理を日常的に楽しんでいた。また、キリスト教の各宗派に加え、ユダヤ教、ヒンズー教やイスラム教の信者たちも滞在し、それぞれの宗教的戒律に従って料理を作った。結果として、実に多彩な食文化がこの地にかもし出されたが、その一方では、食材の多くは現地で調達していたので、「長崎チャンポン」に見る独特な折衷文化の様子もうかがえる。外国人たちは日本人客にも西洋料理を振舞ったり、日本人従業員にどのようにして肉料理やソーセージ、ピクルスやデザートを調理するかを教えたりして、西洋料理が全国に広まっていった。IPPONMATSU邸トーマス・グラバーは日本を理解しようとする姿勢が強かったと言っても、イギリス人としてのアイデンティティーを堅持し、他の外国人住民と同様に西洋式の暮らしをしていたのも事実である。日本人従業員たちは隣接する厨房で西洋料理を作り、家具を掃除し、銀食器を磨き、輸入されたバラとベゴニアの木を丁寧に剪定した。東洋趣味の調度品や芸術品がいくらか持ち込まれたことを除けば、グラバー邸はまるで長崎の山手にイギリスの暮らしの一部が移植されたかのようであり、文化、写真6 大浦25番地のジャパン・ホテルは長崎指折りの西洋式ホテル。ダイニングルームでは西洋風の家具と日本の屏風や掛け物が独特な雰囲気をかもし出しているマナー、価値観やその他のすべてが守られていた。しかし、グラバーが文久3年(1863)に南山手に建てた住宅では和洋折衷の文化が見て取れる。日本最古の西洋風建築であり世界遺産にも登録された建物は、当時も居留地でもっとも美しく立地条件の良い家であった。インドのカルカッタや香港のコロニアル風建築を参考に、日本人棟梁が高いドアと窓、暖炉や絨毯の敷ける床を採用し、グラバーのニーズに応えるように設計した。ただし、日本の建材と工法を駆使して建てたものなしっくいので、日本瓦の屋根と和風の小屋組み、在来の漆喰壁、尺寸を用いた柱間計画といった日本の伝統的な造りとなっている。結果は予期せぬ建築の融合で、開国後間もないころの日本人と欧米人の見事なコラボレーションとなった。この和洋折衷の建築様式は「洋風建築」「異人館」「洋館」、長崎では「オランダ屋敷」などと呼ばれてきた。旧グラバー住宅を捉えた初期の写真からは、建物のすぐそばにそびえ立つ大きな松の木が見て取れる。この松の木にちなんでグラバーは自宅のことを「IPPONMATSU(一本松)」と呼び、家の北側部分に松の樹幹を取り囲む小さな温室を造った。威厳のある古木は後に病気にかかり枯れ、明治38年(1905)に切り倒されてしまった。グラバー住宅は他にも数々の修理や増改築を重ねてきたが、今でも建てられた当初の独特な外見と雰囲気を漂わせている。グラバーの「測り知れない貢献」グラバー商会の活動は前期と後期に分けることがで028Civil Engineering Consultant VOL.272 July 2016