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写真7トーマス・グラバーが晩年に使用した名刺きる。前期は中古船舶や武器の取引を含めた貿易が中心だった。後期は商取引の大半を元部下に任せ、石炭産業や造船など様々な近代技術を日本に紹介し、それに関係する機械類を輸入し、イギリス人専門家を雇った。グラバーは長崎の近くにある小菅に日本初の修船場と、日本初の近代的な炭鉱を高島に開設する手助けもした。また、居留地の大浦海岸通りに鉄道を敷き、小型の蒸気機関車を走らせて見物に集まってきた日本人を驚かせた。さらに、スコットランド人技師を雇い、日本初の灯台を建設し、日本で初めての造幣機を香港から輸入する仲介も果たした。英字新聞『ナガサキ・エクスプレス』の編集者に手紙をあてた人が、後にグラバーの業績について次のように語っている。「この国の真の歴史を述べようとするなら、世界有数の国家となった日本に対する、グラバー氏の測り知れない貢献を避けて通ることは出来ないでしょう」。明治3年(1870)、グラバー商会は多額の借金を抱えて倒産した。最も深刻な負債の一つはグラバーが自国のスコットランドから輸入し、同年に熊本藩に売った1,500トンの最新鋭コルベット艦である。彼が返済に困っていることを見切ったスポンサー会社のジャーディン・マセソン商会は資金援助をやめ、グラバー商会は倒産を余りゅうじょう儀なくされた。しかし、「龍驤」と名づけられたコルベット艦は、後に明治政府に寄贈され、新しい大日本帝国海軍の最初の軍艦となり、明治5年(1872)には明治天皇の3ヶ月にわたる西国御巡幸の御召艦として使用された。グラバーは倒産後も日本に残り、急速に発展する近代産業に関わっていった。彼は東京で三菱社の顧問となり、また現在のキリンビールの前身であるジャパン・ブルワリー・カンパニーの設立に中心的な役割を果たした。その後、頻繁に長崎に帰り、家族と共に南山手の自宅で休暇を過ごした。明治41年(1908)、明治政府はグラバーの日本への貢献を讃えて、外国人(特に商人)には破格の勲二等旭日重光章が授与された。伝説の人となった彼は、明治44年(1911)に東京で他界し、長崎の坂本国際墓地に埋葬された。<写真提供>写真1、2、4グラバー園写真3長崎歴史文化博物館写真5、6、7、8筆者写真8有名な観光地となった戦後の旧グラバー住宅Civil Engineering Consultant VOL.272 July 2016029