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写真2 横から望む奉行所の階段(2002年に実施された奉行所跡の発掘調査で、建物の部分として唯一出土した、長崎奉行所正面の階段部分)写真3正面から見る奉行所の階段そのうえ外国人だけでなく、国内の諸国の人々も混在していたので風俗が著しく乱れていた。ところが、河野が長崎奉行としてこの地にやって来たとたん、それまでざわついていた長崎の町の隅々まですっかり静まりかえってしまった」。この記述により、当時の長崎の混乱状態が多少なりとも想像できるのではないかと思う。それと同時に、それまで経験したことのない立派な人物が長崎奉行として登場したことが、長崎の市民にとっていかに衝撃的なことであったのかが窺える。以下、河野が実施した政策や方針について、具体的に紹介していきたい。写真4奉行所の座敷外国人やキリシタン対策河野が長崎奉行に着任した際には、すでにオランダ人は出島に隔離されていた。しかし、その出島への出入り制限が甘かったようである。河野は遊女以外の女性や僧侶などが出島に入らないことや、出島の周囲に海からも船で近づかないよう、出島の入口の橋の手前に出入り制限を記した高札を掲げた。これは幕末まで継続的に置かれた。そして長崎では、毎年正月には各町で踏み絵をして町人たちがキリシタンではないことを試した。これには、紙や板にキリスト像などの絵が描かれているものが使われたが、すぐ擦り切れてしまうので、河野はこれを真鍮で作らせた。これは現存しており、東京国立博物館に所蔵されている。また、河野は外国人からの八朔礼を辞退した。八朔礼とは今で言う御中元の起源とされるもので、毎年8月1日に主人や知人に贈物をする古来の習慣である。河野は、八朔礼は日本の習慣であるので外国人から受け取る必要はないとした。もし受け取れば、彼らに何らかの恩恵を与えなくてはならなくなるとして拒否したのである。非行少年たちへの処罰河野は、少年たちが喧嘩をしたことに対して処罰を下したこともある。これがとてもユニークで、まず奉行所の白州で彼らを後ろ手に縄で縛って、解いたらわかるように結び目に封をした。そして、彼らをそれぞれ在住の町へ戻し、その町で一夜ずつ町人の家々に預からせ、30日程で解放した。これはかなり痛かったこともあり、またまっとうな町人たちと話す機会もあったせいか、この罰を受けて人柄がよくなる者も多かったという。抜荷事件の処断1630年代の一連の鎖国令以来、日本人が海外へ出ることは禁じられていた。ところがその後も毎年、商人たちが朝鮮半島にまで行って武器などを輸出していたことが、1667(寛文7)年に発覚した。その処断をしたのが河野であった。これには多くの商人が関わっていCivil Engineering Consultant VOL.272 July 2016031