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写真5長崎貿易で取り扱われた商品図1 盆の墓参風景(出典:越中哲也註解『長崎古今集覧名勝図絵』)たが、その中心人物とされたのが福岡藩御用商人の伊藤小左衛門であった。河野は、今回、発覚した事件に関与した商人のみを処罰するに留め、それ以外の商人を不問に付した。しかも本来ならば中心人物の一族郎党も処罰を免れられないが、伊藤の妻や母親に対しては罪を免じたのである。河野が慈悲をもって裁断したことに、幕府も好意的だったという。すばらしい人物への褒賞河野は、市民の中で模範となるような人物に対して次々と褒賞を与えた。たとえば、認知症を患い、しかも目が不自由になった父親の面倒を見ながら野菜を売っていた甚太郎を褒賞し、幾ばくかの金を与えた。また、七左衛門という者は、幼い頃世話になった主人の家が没落し、だれもその主人の面倒を見ようとしないのを引き取って、自分の家で大切に養った。そして、主人が死去した後は、毎日墓参を欠かさなかったのである。河野は、その七左衛門に対して、町の重要な役職に任命した。外国の習慣への厳しさ河野は、先祖や家族の命日には必ず寺に参詣していたが、お盆参りの際に、人々が寺近くの墓地で酒盛りをして声高に騒いでいるのを見て「あれは何事であるか」と尋ねた。長崎では中国の風習を取り入れ、初盆の家は8月13日、一般には14日の午後5時くらいからそれぞれの墓に提灯を灯し、墓前にはご馳走を供えて酒宴を開いた。それが祖先の霊をお迎えする中国由来の習慣であった。それを知った河野は激怒した。「お盆に死人を弔って墓参りすることはどこでもある。しかし、日本において父母先祖の墓地で酒盛りをするようなことは見たことがない。こういったことは、前代未聞の振る舞いである」として、この習慣を厳しく禁じたのである。この時代は、まだ貿易のために長崎にやって来る唐人(中国人)は市中のどこでも住むことができたため、中国の風習や習慣が長崎にかなり染み込んでいた。これを河野は出来る限り排除し、日本古来の習慣を守らせようとしたのである。厳格な性格と規律ある生活奢侈をきわめた市民に対して、河野は、たとえば正月に長崎の役人たちから挨拶を受けるが、その際に自つむぎら紬を着て応対した。そうなると、長崎の人々は紬以上の縮緬や羽二重、毛織物などを着るわけにもいかず、質素にせざるを得なくなる。こうして自ら実践して、長崎の市民たちの模範となった。しかも、日々の生活も規則正しいうえ、緊急を要する事柄はどんな時でも対応した。祭の際にも、桟敷の上で乱れるようなこともなく、まるで人形のように動かない姿勢を保ち続けた。それを見た市民たちは、古来の武士とはああいうものだと感心し、見物していた外国人たちを驚かせたのである。そのため、長崎の人々は「河野先生」と呼んで敬った。こんな立派な長崎奉行がいる一方で、市民からかなうじたけり嫌われた長崎奉行もいた。たとえば戸田出雲守氏孟である。032Civil Engineering Consultant VOL.272 July 2016