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図1カリオカ水道橋の一般図19世紀後半の奴隷制廃止及びヨーロッパからサンパウロ州への移民の流入などにより、コーヒー栽培は土壌や気候、高度などがより好条件であるブラジル南部へと広がり、ブラジルの主要産業となっていった。1808年にナポレオン軍がポルトガルに侵攻したことで、リスボンのポルトガル王室はリオデジャネイロに移り、翌年にポルトガル・ブラジル連合王国の首都となった。ポルトガル王室は1821年に帰還したが、王子ドン・ペドロはブラジルに残った。その約1年後の1822年9月、王子はブラジル帝国の独立を宣言し、同年12月、ドン・ペドロ1世と称して皇帝の地位についた。ポルトガルからのブラジルの独立紛争はイギリスが間に入ったこともあり、ほとんど交渉のみで解決している。1854年にはブラジル初の鉄道が14km建設され、ガス燈や電信、上下水道といったインフラの整備も始まった。1889年に帝政から共和制に移行したものの、リオデジャネイロは引き続きブラジル連邦共和国の首都であった。■カリオカ水道橋の建設カリオカ水道橋は、ポルトガル植民地時代の街の発展に最も寄与した重要な土木事業の一つであった。リオデジャネイロは質の悪い水と沼地によって囲まれ、新鮮な水を確保することが望まれていた。そこで市郊外のチジューカの森に流れているカリオカ川の水を中心市街地の住民に供給する計画が持ち上がった。建設計画は17世紀初頭から練られていたが、100年以上経った1719年に建設が開始され、1723年になってようやく水道橋と異なったルートで水道管が敷設されたが、すぐに使えなくなり再度建設することとなった。そして、1750年に古代ローマの水道橋を模した現在見る橋が建設されたのである。水道橋建設に当たっては、周辺の沼地を埋め立てて用地図2カリオカ水道橋から続く給水施設(1834年完成)を確保した。このため水道橋の橋脚は支持力を得るため直接基礎が1.5mの深さとなっている。建設は准将のホセ・フェルナンデス・ピント・ラクナウの指揮で進められ、全長270m、幅約3.0m、高さ17.6m、上部アーチの平均高約8.5mの42連の二重アーチとして完成した。ラパ地区にあるためラパ・アーチとも呼ばれる。橋のすぐ下流となる現在のカリオカ広場に新設された給水口まで、6.6kmの距離を水が流れた。1834年に16カ所の給水口をもつ施設に改築され、さらに1892年には36カ所に改良された。水は市民に提供するだけでなく船へも供給するため、水路が港の桟橋まで延伸されていた。水路の形状は、鳥の糞などで汚れるのを防ぐために開水路ではなくパイプを使っていた。当時の資料で鉛を購入した記録から、砕石の詰まっている部分に鉛製のパイプを設置していたようだ。現在、水源となったカリオカ川は、チジューカの森では小さな渓谷の状態で残っているが、市街地においては蓋が掛けられて暗渠となってフラメンコ海岸からグアナバラ湾口へ流れ込んでいる。また、暗渠部についてはグアナバラ湾とCivil Engineering Consultant VOL.272 July 2016045