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スカイツリーと荒川放水路第71回人の手により開削された「荒川放水路」東京都北区?江東区・江戸川区日本交通技術株式会社/環境調査計画部/交通計画課-高橋真弓/TAKAHASHI Mayumi(会誌編集専門委員)■多くの人に親しまれる荒川荒川はその源流を山梨県、埼玉県、長野県の県境に位置こぶしがたけする標高2,475mの甲武信ヶ岳に発し、山地を流れ下り、埼玉県中央部の平野を潤しながら、首都圏を貫流する一級河川である。この荒川のうち東京都北区の岩淵水門で隅田川と分岐し、足立区および墨田区・葛飾区の区境を抜けて江東区・江戸川区の区境にて東京湾に注ぎ込む全長約22km、幅約500mの部分が「荒川放水路」と呼ばれている。現在荒川放水路沿川には多くの人が住み、工場などが立地する高度な土地利用が行われている。広大な高水敷では野球、サッカー、ゲートボールといったスポーツや散策、公園・緑地として、また自然観察や環境学習のための自然地などとして利用されており、都市に不足しがちな憩いの空間として近隣の住民に親しまれている。今では多くの人に親しまれているこの荒川放水路が人の手によって開削された人工河川で、隅田川がもともと荒川の下流であったことはあまり知られていない。なぜ荒川放水路は造られたのだろうか。■荒ぶる川小さな漁村に過ぎなかった江戸は1590(天正18)年、徳川家康が江戸城に入ると、ただちに大規模な城下の建設が始まり、急速に近世城下町として発展していった。江戸の経済活動を支えたのは、江戸湊(現在の東京都中央区の日本橋や京橋地区の河岸)に集められた物資を市中に配分していく運河網であった。それらを積み下ろす場所である船着場としての河岸も重要な役割を担っていた。一方、荒川沿川では江戸時代、頻繁に洪水が発生していた。江戸市街地を洪水から守るために、荒川の下流部(現在の隅田川)では日本堤や隅田堤が築堤された。これらは両岸から堤防をせり出して漏斗状に狭窄部を形成し、下流へ流れる量を制御し、上流側を遊水地として洪水の調整を040Civil Engineering Consultant VOL.275 April 2017