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れ、開削に伴い発生した土砂河川区域低水路は2,180万m 3に及ぶ。高水敷となるところは、人力や機械によ堤防元の地盤高堤防って掘り下げ、それにより発生高水敷人力掘削人力掘削高水敷した土を利用して堤防を築い3.7m機械掘削た。低水路となるところは、浚機械浚渫渫船により河口部から低水路の浚渫が開始され、掘削機や浚渫船により高水敷を更に掘り図3 開削概念図下げ、荒川放水路の基本的な写真1旧岩淵水門写真2併走する首都高速道路と荒川(綾瀬水門)形状を造った。また、荒川放水路開削に伴い、支川の中川や綾瀬川は河川が分断されたため、新たな水路を整備する必要があった。中川は開削に伴って遮断される上平井地先から、荒川放水路の左岸に沿って延長約7.8kmの新水路が設けられ、西葛西付近で荒川放水路に合流する。綾瀬川については、放が得策と考えられていた点などの理由から現在のルートが採用された。そこには、宿場町として栄えた千住町と都心部を分断したくないという思惑もあったのかもしれない。水路との交差部から荒川放水路左岸に平行して木下川地先に導き、中川に合流させた。工事は風水害の発生により度々遅延した。1923(大正12)年に発生した関東大震災では、放水路開削以前の中川■放水路開削事業1911(明治44)年に着手された荒川放水路は、原田貞介あきらによって主に計画され、青山士によって工事が指揮された。1865(慶応元)年生まれの原田貞介は、1886(明治19)年東京帝国大学理学部を退学してドイツに留学し、1891年シャロッテンブルグ高等工芸学校を卒業し、翌年内務省に入省しや綾瀬川を締め切った場所や、かつての流路上に築堤した部分、あるいは盛土をして間もない部分など20カ所余りで、地震による陥没、亀裂、滑り被害が発生した。多くの困難を経ながらも、1924(大正13)年10月の岩淵水門が完成し通水された。その後も、各地の浚渫作業と水門工事が続けられ、1930(昭和5)年に荒川放水路は完成した。た。各地の工事顧問等を多数歴任した。また、1878(明治11)年生まれの青山士は1903(明治36)年東京帝国大学土木科を卒業後、渡米してニューヨークの鉄道会社で測量に従事し、1904~1912年の間はパナマ運河の測量設計に参加した。帰国後は内務省技師となり荒川放水路工事や信濃川大河津分水路工事に携わった。荒川放水路の計画流量は、岩淵地点における1907(明治40)年の洪水での推定流量に基づき、4,170m 3 /sと定められた。そのうち3,340m 3 /sを荒川放水路に、隅田川には堤防がなくても洪水が起きない830m 3 /sを流下させることとした。また荒川放水路では非常時に備えて、流下断面に余裕を持たせるよう堤防は高く計画された。荒川放水路の工事は延長22km、川幅約500mで計画さ■岩淵水門開削によって造られた新流路(放水路)と旧流路(隅田川)との分派点には岩淵水門が設けられ、洪水時の荒川から隅田川への流入を制限するとともに、平水時の舟運の航路確保に配慮した。この水門は青山士が設計や施工に尽力したことでも知られている。通水当初の水門は1960(昭和35)年、地盤沈下に対応して門扉継ぎ足しが行われた。また、水門巻上機の改修や遠隔操作施設の設置などの整備が施された。その後、施設の老朽化が進行したことと、1973(昭和48)年に荒川の基本計画が改定されたことに伴う水門高の不足が生じたことから、1982(昭和57)年に新岩淵水門(青水門)が整備された。042Civil Engineering Consultant VOL.275 April 2017