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水門としての役割は終えた岩淵水門であるが、文化的価値が重要視され、撤去されることなく、現在も旧岩淵水門(赤水門)として姿が残っている。■現在の荒川放水路現在、多くの公園や緑地として開放されている荒川放水路の河川敷であるが、昭和20年代までは、地元住民の開墾による田畑の占用など、農業生産に密着した利用がほとんどだった。その後の社会・経済の発展や生活様式の変化にともない、ゴルフ場や自動車教習場など、広い敷地を必要とする施設が河川敷にその場を求めてくるようになった。民間企業が占用し始めた河川敷であったが、1965(昭和40)年12月に『河川敷地の占用許可について』の通達があり、「都市又はその近傍にある河川において、一般公衆の自由な利用を増進するために必要であると認められる場合には、公園・緑地などの広場ならびに一般市民が利用することが出来る運動場に限って、占用を許可する」とされた。荒川放水路では1967(昭和42)年2月に『河川敷地開放計画』が策定され、まず民間企業のグラウンドやゴルフ場、自動車教習場に占用されていた河川敷を一般に開放することから始められ、新規の占用には公共の運動場などが優先的に許可されるようになった。また、近年では河川空間を利用した震災時における復旧ネットワーク整備も進められている。大規模災害が発生した場合に、被災した河川堤防を復旧するための建設機械や土砂などの資材の運搬や、被災者への救援物資の運搬などを、河川敷に整備された緊急用河川敷道路と連携して機動的に行うための拠点として、リバーステーション(船着き場)や災害時の復旧活動の拠点となる防災ステーションが整備されることになった。荒川ロックゲートは水位が異なる荒川放水路と旧中川を船が通行出来るようにするための施設であり、災害時には荒川放水路側から緊急支援物図4 中川・綾瀬川の旧河道と現河道資を江東デルタ地域に運ぶことや、江東デルタ地域に取り残された帰宅困難者を荒川放水路側へ運ぶことを可能にする。これらの整備により、災害時への備えが着実に進められている。人工的な河川である荒川放水路は、今では自然があふれ、河川敷は多くの人に憩いの場としても利用されている。また、少し古いテレビドラマ『3年B組金八先生』では、堤防上を登下校する風景が多く使われており、沿川住民でなくても、目に浮かぶことのできる風景ではないだろうか。これからも、地域を守り、多くの人に親しまれる荒川であることを強く願う。<参考資料>1)『荒川放水路変遷誌』荒川放水路変遷誌編集委員会2011年10月国土交通省関東地方整備局荒川下流河川事務所(http://www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage00039.html)<取材協力・資料提供>国土交通省関東地方整備局下流荒川河川事務所<図・写真提供>図1 国土交通省関東地方整備局荒川下流河川事務所-(資料:「迅速測図原図復刻版((財)日本地図センター)」より作成)図2 国土交通省関東地方整備局荒川下流河川事務所-(資料:「国土地理院1/10,000地形図」より作成)図3『荒川放水路変遷誌』を基に作成:株式会社大應図4『荒川放水路変遷誌』P40上塚本敏行写真1、5高橋真弓写真2、3、4箕輪知佳写真3岩淵リバーステーション写真4荒川ロックゲート写真5荒川河川敷で野球の練習に励む少年Civil Engineering Consultant VOL.275 April 2017043