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Consultant276
写真3建設中の平和記念公園(1952年8月)理で進める方針も確定し、審議会決定を経て10月告示となった。多くの復興構想提案は実現に至らなかったものの、当時の復興気分を盛り上げた。当初の復興計画として街路計画が確定され、デルタ中心部をほぼ東西に横断する100m道路と、基本的には全体として格子状のパターン、斜路や地形と歴史が影響したと思われる独特のパターンが混在した。100m道路計画は、戦時末期に行われた建物疎開が影響していると思われ、紆余曲折を経て実現した。公園は3つの大公園、とりわけ70.48haという基町地区での中央公園、爆心地近くの中島公園が特徴的であった。1952年、中島公園が平和記念公園に指定替えされ、その他の小公園や河岸緑地が追加された。街路計画は部分的に地形と歴史条件に影響されたとはいえ、基本的には近代都市への近代化路線であり、公園計画は西欧の先進的な都市をモデルとして面積比率を高めようとした(写真3)。日本における戦災復興事業とは、その主要な内容は土地区画整理という事業で、都市計画決定した1,322.5haを土地区画整理として、東部と西部に二分し、特別都市計画法に基づいて東部復興区域785haを広島市長施行、西部復興区域537.5haを広島県知事施行とした(図4)。復興計画については1949年の広島平和記念都市建設法制定により、それまで停滞していた復興事業が目に見えるように進展する道が開かれた。この過程で平和記念公園がコンペ入選の丹下健三案で建設され、原爆ドームを保存し、1969年8月(第2工区は1971年1月)には西部復興区域の、1970年1月には東部復興区域の換地処分がなされた。この都市基盤の上に民間を含めて積極的な建物建設等が進められ、これが目に見える形での復興(復興現象)といえた。図4土地区画整理区域(東部と西部)ヒロシマ復興まちづくりへの評価と深化へ広島の復興に対してはどのような評価となろうか。「よくもここまで復興したものだ」「広島は復興の良き事例である」「このような課題を抱えている地域に対して励ましになる」といった評価も多い。外交辞令や単純評価もあろうが、「どうしてこんなことができたのだ」といった素朴な疑問の表れも多くみられる。とはいえ、広島の復興過程の最大の特徴はハード中心であり、被爆者問題を置き去りにしているとか、社会的な課題には対応できていないとか、指摘されるのである。さらに、JICA等での研修活動を進めていけば「ヒロシマから学べ」とする単純な認識が通用しないことがわかる。日本におけるまちづくりの方法が、海外での宗教や民族・部族対立という場面では十分に対応できないこと、1950年以後の生産力回復といった制度的、経済的に極めて特殊な条件の下で奇跡的に進んだということである。海外から向けられる質問に対しては、そのことを踏まえて応えていく姿勢が必要である。オバマ大統領の広島訪問以後、国内外からの来訪者が増加している。今こそ、平和記念都市としての役割が問われる。復興過程で国からの特別の補助、国有財産の無償提供等の支援を得て、また国内外から物的精神的支援を得て復興を果たしたのであるから、この復興した基盤の上で、平和記念資料館の改修や被爆建物の再生利用の試みや、平和都市としてより深化した平和の意味を発信し続けることが必要である。Civil Engineering Consultant VOL.276 July 2017009