ブックタイトルConsultant276

ページ
13/60

このページは Consultant276 の電子ブックに掲載されている13ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

Consultant276

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

Consultant276

写真2原爆ドーム前を走行するグリーンムーバーマックスる。昭和20(1945)年8月6日8時15分、人類史上初めて使用された原子爆弾によって、広島の街は壊滅的な被害を受けた。本社屋も爆心地から約2 kmの距離にあり、木造2階建ての建物が崩れ落ちる被害があった。しかし路面電車は、被爆3日後には被害の少なかった西方面の路線の一部で運行を再開し、絶望のどん底にいた広島市民を勇気づけ、共に復興への道を歩んできた(写真3)。その後、路線は急速に復旧がなされ、当時「広島の街では今後75年間は草木も生えないだろう」と言われていたが、現在の広島の街並みをみると、被爆の歴史をまったく感じさせないほどビルが建ち並び、見違えるばかりの近代都市への復興を果たしている。二度目の危機がモータリゼーションである。戦後の復興期に入り、街路の拡幅整備とともに昭和25(1950)年頃から電車軌道の移設が始まり、折からの高度経済成長の波に乗って、輸送人員は昭和30年代も着実に伸びていった。しかしながら、モータリゼーションの進展によって昭和38(1963)年4月、軌道敷内への諸車乗り入れが可能となり、路面電車の運行効率が低下し、ノロノロ走る電車は邪魔もの扱いされるようになった。この結果、路面電車区間である軌道線の輸送人員はマイカー元年と言われた昭和41(1966)年度の5,372万人をピークに減少しはじめ、昭和46(1971)年度には4,213万人まで落ち込んだ。この減少は全国各地でも見られ、地下鉄などへの切り替えにより路面電車を廃止する都市が相次いだのもこの時期である。また、前広島市長が「広島人の遺伝子に組み込まれた路面電車」と公の場で発言したこともあり、広島で地下鉄必要論が盛り上がらなかった。写真3被爆当時の広島市内の状況と電車シームレスネットワークこ昭和30年代初めごろの宮島線は広電西広島駅と己い斐電停で、利用者は乗り換える必要があった。これを解消するために、架線電圧も軌間も同じであったことと、鉄道と軌道の結節点である広電西広島駅と己斐電停が土地区画整理事業で線路が複線で繋がり、直通で運行することが可能となったことから、路面電車タイプの車両が鉄道線への乗り込みを開始した。昭和33(1958)年に団体貸切電車を皮切りに、昭和37はつかいち(1962)年には恒常ダイヤで廿日市から広島駅間の直通運転を実施し、翌年には宮島口駅まで乗り入れ、宮島線全線の直通運転を実現した。鉄道と軌道の直通運転によるシームレスネットワークの先駆けとなる取り組みであった(写真4)。かつて、広島でゴムタイヤ式の新交通システムの導入が議論されている中、交通評論家の岡並木氏が講演で写真4かつての宮島線使用車両。右端が路面電車タイプの直通運転車両Civil Engineering Consultant VOL.276 July 2017011