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Consultant276
写真2陸軍糧秣支廠跡(現:広島市郷土資料館)写真3陸軍被服支廠跡年創業)だが、同社が昭和41年に倒産したことで広島県におけるたたら製鉄の歴史は終焉を迎えた。図らずも、この前年に日本鋼管(現:JFEスチール)が国内最大級の高炉を備えた銑鋼一貫製鉄所を建設すべく福山市に進出したことは、県内の鉄鋼業が伝統的製鉄業から近代的製鉄業へ移行したことを象徴するものとなった。軍需による県内産業の発展広島市には陸軍の第5師団が置かれ、呉市には海軍拠点の鎮守府があったため、軍の関係者も多く軍需の影響力は大きかった。また、官営の軍需工場として、県内最大級の呉海軍工廠をはじめ、広島市に陸軍糧秣支廠(保管・補給・製造施設)や被服支廠などが設置され、民間でも様々な軍需工場が出現した。現在は自動車メーカーとして知られるマツダは、かつて呉海軍工廠をはじめとする軍需の協力工場として軍需品の製造を行っていた。日本製鋼所広島、三菱重工業広島、三菱電機福山、広島メタル&マシナリー(旧:寿工業)、神田造船所、久保田鐵工所など、軍需目的で事業を開始し発展した企業や工場も数多く見受けられる。これら軍需工場のほとんどは兵器や軍需機器を扱っていることから大部分が機械関連であり、現在も広島市を中心に県内産業において加工組立型業種のウエイトが高い理由の一つとなっている。三菱重工業の4工場多くの機械工場の中でも最盛期に4工場が稼動していた三菱重工業は特筆すべき存在だといえる。同社の工場は第二次世界大戦末期の昭和19年になって、広島市沿岸の埋立地であった観音地区と、これに隣接した江波地区の2ヵ所に進出した。このうち観音地区の総合造機工場は、軍需品の増産で生産余力が乏しくなっていたという三菱重工業側の理由による工場新設であった。一方、江波地区に建設された造船工場は、海上輸送力の強化を狙う海軍の指示によるものであった。近隣2カ所に同時に新工場が立地したのは以上のような事情があったためだが、これにより広島市沿岸部には三菱重工業の一大機械・造船工場地帯が出現することになったのである。このほか、三菱重工業の工場としては、三原市に蒸気機関車などの車両工場、広島市祇園町に工作機械工場の2工場が存在していた。このうち工作機械工場については、東洋製罐・東洋鋼鈑の関連会社東洋機械(昭和14年創業)であったものを、軍の要請により三菱重工業が吸収合併したという経緯がある。工作機械工場は平成15年に閉鎖されるが、現在も広島県内には三原市の工場を含め三菱重工業の3工場が稼動を続けている。コルク工場から発展した自動車産業広島県を代表する地元企業として、マツダを知らない人はいないであろう。自動車産業は多くの部品メーカーから成り立っており、裾野の広い産業といわれる。広島県においても、マツダに部品を供給する企業や工場は多数あり、県内産業への影響力は大きい。マツダの源流は明治23年創業の清谷商会という、コルク製品を製造する個人企業である。清谷商会はコルク需要の減少から経営破綻し、これを救済すべく大正9年に設立されたのが東洋コルク工業で、現在のマツダの直接的な前身企業である。同社は県内有数の実業家である海塚新八氏を社長に、清谷角八氏、煙谷孝吉氏、016Civil Engineering Consultant VOL.276 July 2017