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特集広島?ヒロシマから広島、そしてHIROSHIMAへ?5広島平和記念公園と平和記念式典の空間演出千代章一郎SENDAI Shoichiro広島大学大学院/工学研究科准教授ヒロシマの復興において、平和記念公園は恒久平和のシンボルとして整備され、以降、毎年平和記念式典が開催されている。設計者である丹下健三の平和記念公園整備に対する考えと、そこで開催される平和記念式典の空間演出はどのようなものであったのだろうか。平和記念式典第二次世界大戦後70年以上が経過し、戦争の記憶の風化に対して様々な議論がされている。しかし「風化」という言葉は、記憶されるべき真実が存在するという前提に基づいている。もし仮に、記憶とはもっとダイナミックで、可変的で、いろいろな時代に生きる人々の心の痕跡であるならば、記憶はつねに生成を続けていくと考えることもできる。1945年8月6日の被爆後、広島市では、速やかに設置された復興審議会や広島平和記念都市建設専門委員会によって平和記念公園が計画され、翌年には丹下健三(1913~2005)の案をもとに整備が開始された。1947年から始まった平和記念式典は、1952年より平和記念公園中央の広場で毎年行われている。現在、この式典には被爆者や遺族、市民など多くの人々が参加し、広島市長による平和宣言をはじめとし、原爆投下という歴史的な日を記念し、平和を訴えかける平和都市広島の意思を世界へ発信している。参列する者は、当事者としての市民であり、かつまた人類社会全体である。表面上は祝祭性、宗教性のない現代に特異な都市儀式である。1954年に発表した『廣島計画(1946~1953)』には、「私たちが考えた広島のコミュニティ・センターは、しかしきわめて特殊なものであった。それは広島市民生活再建の中核的な施設であるばかりではなく、さらに、あの広島の記憶を統一のある平和運動にまで展開させてゆくための実践的な機能をもった施設であって、それに平和記念公園の構想1949年7月、平和記念都市「広島」を象徴する公園の造営を目的として、競技設計が企画され、丹下健三らの案が一等入選する。しかし、丹下健三にとって、はじめに過去の記念碑は否定されるべきものであった。ところが、丹下健三は変節する。図1丹下健三による「広島平和記念公園」設計競技の透視図(1949)022Civil Engineering Consultant VOL.276 July 2017