ブックタイトルConsultant276

ページ
25/60

このページは Consultant276 の電子ブックに掲載されている25ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

Consultant276

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

Consultant276

原爆ドーム凡例参列者視線の方向100m広島平和都市記念碑慢幕広島平和記念資料館(建設中)図2平和記念式典における景観演出(第Ⅰ期):19 5 2年(昭和2 7年)加えて、記念塔のごときものの必要を認めなかったのである。しかし、そのような判断にもかかわらず、私の心情は、迷わざるを得なかった。慰霊堂を含む記念塔を、広島の人びとが求めていることのなかに、意味があるように思えるのであった。無垢の犠牲者を、父や母や、妻や子にもつ広島の人びとの願いにたいして、何か慰霊し、祈念するための施設を、ささやかなものであるにしろ、もちたいと感じたのである。これが、私たちの答であった」と書かれている。高等学校時代を広島で過ごした丹下健三にとって、広島という土地に特別の思いがあったことは想像に難くない。しかし丹下健三は、素朴な同情や共感に駆り立てられて慰霊のための施設を構想したのではない。「平和を創り出すための工場」でありたいとし、その独特な言い方で、平和を観念的に祈念することと平和を創り出すという建設的な意味を併存させる。そこで丹下健三は平和を過去の慰霊と未来の創造の半ば両義的な性格において読み取り、「100m道路を横軸(東西軸)とし、縦軸(南北軸)を原爆ドームに向けて引く。この十字軸は、動線に重なるだけでなく、視覚の軸ともなり、横軸の東の先には比治山が望まれ、西の端には丘陵が盛り上がる。縦軸の目指すのは、もちろん原爆ドーム。公園のなかを走る道路はつづみ形とし川向こうの道や100m道路と上手につなぐ」。原爆ドームを基点として、敷地を越えて南北東西の軸で都市全体に位置づけるという設計競技において他の誰も思いつかなかった構想である。したがって、原爆ドームが存在しなければ、丹下健三の構想は成り立たない。丹下健三が設計した平和記念公園の中心的な施設、広島平和記念資料館、広島平和記念館、広島市公会堂、広島平和都市記念碑などが順次竣工している。しかし原爆ドームは、新しい施設整備よりずっと後になって1966年に保存が決定している。もちろん原爆ドームの劣化によって巻き起こった保存運動の果実であるが、丹下健三が見出した平和記念公園の南北軸が保存に果たした役割も大きい。平和記念式典における設営の変遷平和記念式典そのものは、平和記念公園の事業よりも早くから始められている。1946年7月6日の中国新聞朝刊でも報道された「8月6日を戦争放棄世界平和の記念日として後世に伝えるとともに文化的平和都市として再建に努力する市民に希望を与える」ことを目的とし、平和復興市民大会が旧護国神社前広場で開催されている。翌年には、平和記念公園北端の慈仙寺鼻広場に建設された高さ10mの平和塔の前広場において、第一回となる平和記念式典が開催されている。その後、慈仙寺鼻広場が平和公園になるため平和塔が除去され、1952年8月6日から毎年、平和記念公園中央に新設された広島平和都市記念碑の前広場で開催されている。以降、式典の設営形式はいくつかの変遷を経ている。第Ⅰ期(1952?1956年)1952年、第一回となる平和記念式典において公園中央に広島平和都市記念碑が除幕される。平和記念公園Civil Engineering Consultant VOL.276 July 2017023