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Consultant276
内には多くのバラックが残り、広島平和都市記念碑の裏には幔幕が張られる。記念碑裏に立ち並ぶバラックを隠すためであり、これによって参列者は記念碑前面に参列を限定される。その後参列者は徐々に増え、1955年には平和記念会館、平和記念資料館、公会堂がそれぞれ開館したこともあり、式典の規模は一段と大きくなっていく。また、旧燃料会館付近など一部でバラックが撤去され植栽が施されるが、まだバラックが残存しているために、記念碑裏には幔幕が張られた状態である。1954年8月6日の中国新聞の夕刊では「あの日赤くただれた七つの川はいま青い流れをたたえて、復興のツチ音はたゆみなく続いているが、生き残った傷ついた数千の生命はいまも死の恐怖にさらされたまま。そしていま原爆につぐ水爆―人類滅亡の危機のうちに迎えたこの日、三十五万の市民は悲しみと怒りを越えて、平和への決意を固める敬けんな祈りを捧げた」と伝えられ、都市全体の復興への期待と後遺症への不安や怒りが強く込められている。第Ⅱ期(1957?1975年)公園中央で初めて行われた平和記念式典から5年後の1957年になると、記念碑の裏側に立ち並んでいたバラックが撤去され、それまで張られていた幔幕がなくなる。さらに、原爆ドームの保存工事が完了し、バラック跡の軸線上に植栽が施され、周辺の道が整備されることで平和記念式典としての骨格が構成されていく。またこの年に設置された平和の池によって、記念碑と参列者との間に一定の距離が確保される。しかしこの時点では、参列者は記念碑を取り囲んでいることから、視線の方向は、一定方向に定まっていないことがわかる。1963年から設置され始めた椅子は、当初資料館と記図3平和記念式典における景観演出(第Ⅱ期):19 5 9年(昭和3 4年)図4平和記念式典における景観演出(第Ⅱ期):1968年(昭和43年)原爆ドーム凡例参列者視線の方向100m広島平和都市記念碑広島平和記念資料館原爆ドーム凡例参列者視線の方向100m平和の池平和の灯広島平和都市記念碑平和の池祈りの泉広島平和記念資料館念碑を結ぶ直線道路を除く芝生広場の1/3程度の範囲であるが、1967年には芝生広場の西側全面、1968年からは芝生広場内全面に拡張される。これらによって、軸線上の直線道路を中心とした現在に近い式典となっていくが、平和の池の周辺にも参列者が並び、依然として、参列者の視線の方向は必ずしも一方向に定まっていない。一方、広島市民球場や広島商工会議所の新社屋が原爆ドームの背後に見える。1963年8月6日の中国新聞朝刊では「町に目を向けると整然とした街路に、近代的な高層建築が立ち並び、活気にあふれている」と伝えられ、戦後復興の中で中心市街地の開発は、その質はともかく、平和の一部として肯定的に捉えられている。第Ⅲ期(1975年?)1975年以降、平和の池の両脇が立ち入り禁止になり参列者は記念碑前面の広場に限定され、記念碑から原爆ドームへと抜ける参列者の眺望が定まっていく。また、2003年より暑さを避けるために芝生広場の南024Civil Engineering Consultant VOL.276 July 2017