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Consultant276
凡例参列者視線の方向立入禁止区域100m原爆ドーム広島平和都市記念碑平和の灯平和の池広島平和記念資料館祈りの泉図5平和記念式典における景観演出(第Ⅲ期):19 7 6年(昭和51年)側にテントが設置される。以降2005年には16基、2009年には22基が、中央の軸線状の直線道路を中心に左右対称に設置され、参列者の集約が図られる。それによって、参列者の視線はある一定の方向性を獲得することになる。しかし一方、原爆ドーム後方のみでなく、公園周辺に多くの商業施設やマンションといった高層ビルが見えている。1975年8月7日の中国新聞朝刊では「式典の場を取り巻く生い茂った木々が被爆30年の年輪を物語る。戦争を知らない少年少女から年老いた被爆者まで流れ献花して平和を願った」とあり、式典において、中心市街地の開発は等閑視され、さながら平和記念公園という劇場内の式典の内容のみが伝えられている。見えているものと見えるもの丹下健三の構想においても、実際の整備事業においても、公園中央の南北軸線は平和記念公園の基本原理となっている。それは平和記念式典の設営についても同様であり、時代が下るにつれて、徐々に記念碑と原爆ドームを結ぶ南北軸が強調されていく。一方で、平和記念式典においては、次第に原爆ドームの背景となる公園外に建ち並ぶ高層建物が視野に入るようになり、恒常的な景観が得られなくなっていく。それに伴って、式典のまなざしは刹那的に変化する都市景観を排除し、平和記念公園内部に閉じていく。見えているものと見えるものとのずれが生じているのである。記憶は、集団的記憶として一定の意味を定着していくことだけではない。人々の記憶は変化する。あるいは、丹下健三の言葉を借りれば、記憶は創られていく。それは都市開発という抗いがたい現実と、歴史的に積み重なっていくものとの総体のなかで醸成されていく。緑に包まれた平和記念公園のなかで、原爆ドームへの軸は外に開く唯一の回路として、新たな記憶を生成する仕掛けとなる。そこには、原爆死没者も、丹下健三も、建設した者も、生かされて祈る市民もいる。<図・写真提供>図1『建築雑誌』第64輯、第756号、1949年10?11月、p.42図2、3、4、5 1952、1959年『都市の復興広島被爆40年史』広島市企画調整局文化担当/1968、広島公文書館所蔵/1976年「中国新聞」1976年8月6日夕刊写真1筆者写真1 2012年8月6日の平和記念式典Civil Engineering Consultant VOL.276 July 2017025