ブックタイトルConsultant276
- ページ
- 43/60
このページは Consultant276 の電子ブックに掲載されている43ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは Consultant276 の電子ブックに掲載されている43ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
Consultant276
写真1シドニー湾両岸に広がる市街地(中央にハーバーブリッジ。上が太平洋。右側が南岸の中心市街地)れる人々でもあったと考えられる。しかしボタニー湾に到着した人々は、その光景に驚いたのではないだろうか。報告とは異なり、そこは低湿地で早期に農耕ができる環境ではなかったのである。困り果てた彼らは新たな入植地を探し、ボタニー湾から10kmほど内陸に切り込んだシドニー湾を入植地に選定した。この場所は現在もロックス地区と称される岩の多い場所ではあったが、水源があったことが選定に有利にはたらいたとされている。北側南側■シドニーが抱えた問題だが低平なボタニー湾ではなく、深く切り込んだシドニー湾を入植地に選んだことが、100年後、新たな問題を惹起したのである。入植者たちが上陸したシドニー湾南岸は19~20世紀にかけて、オーストラリアの中心都市として成長を続けていた。しかし、元々湾が切り込んだ複雑な地形をしているシドニーでは、人口が増加するにつれ、南岸だけでなく北岸にも人が住みつき、湾は通勤のためのフェリーであふれかえる状態となっていた。ピークには年間4,700万人のフェリー利用者がいたと言われ、シドニー湾の海上交通はパンク状態であった。都市が成長し続けていくためには、南北岸を結ぶ橋が必要不可欠なものになっていたのである。■ハーバーブリッジの建設シドニー市街地およびシドニー湾の状況から、1815年の図1ハーバーブリッジの側面図フランシス・グリーンウェイ案、1881年のJ.E.ガルベット案など、幾度も架橋案は出されていた。しかし船が頻繁に往来する水深約50m、幅約500mの海上に橋を架けるためには、社会的な後押しや多額の財源、そして何よりそれを強力に推し進める人材が必要であり、ジョン・ブラッドフィールドという技術者の登場を待たなければならなかった。1867年にクイーンズランドで生まれ、シドニー郊外のカタラクトダム等の建設にも参加していたブラッドフィールドは、ニューサウスウェールズ(NSW)州政府の技術者として、橋梁だけでなく鉄道や路面電車等の交通システムなど広範囲に知見があり、都市全体の将来を見据えてハーバーブリッジの必要性を訴え、建設を実現させたのである。ブラッドフィールドは、国際コンペを通じてイギリスのドーマン・ロング社を施工者に選定し、同社の構造技術者ラルフ・フリーマンとともに、1923年7月28日にシドニー北岸のCivil Engineering Consultant VOL.276 July 2017041